東京文化学園:浅間高原寮/うまいもん

野沢菜(オハヅケ)

野沢菜 今から約250年ほど昔(1756年)、野沢温泉村の健命寺八代目住職・晃天園瑞和尚が京都へ出かけた折に、関西地方で漬物として食べられていた「天王寺蕪」の種子を持ち帰った。
その種を畑へ蒔いてみたのが始まりといわれている。

しかし、平均気温6度いう野沢温泉の気候では蕪(かぶ)は食べられるほど大きくならず、反対に地上の葉っぱの部分だけが異常に育ってしまった。
仕方がないので、葉っぱの部分をを塩漬けにして食べてみたら…美味しかった。
と言う嘘のような話。
そこから『野沢菜』という名前がついたと言われている。
『野沢菜』は各家庭によりそれぞれ秘伝の漬け方があり、もちろん、地域によってもかなり味に差がある。
お土産の『野沢菜』では変色しないように加工し、緑青々とした物が売られているが、実は一冬極寒を通過し、飴色に変色した「古漬け」の味は別格なのである。
(鼈甲色の「古漬け」は気持ち悪がられて観光客には売れないのだそうな)
更に、漬かりすぎて酸味が出てしまった物は、細かく刻んで甘辛油炒めにするとまた格別。
(なぜか信州人は砂糖醤油と言う味付けを大変に好む…)
一般に信州(長野県内)では『野沢菜』というよりも“オハヅケ”と呼ばれることの方が多い。

気の置けない家へおじゃますると、とりあえず…
「まぁ、お座んなして…」
と、山盛りの“オハヅケ”とお茶が出てくるのである。



おやき

おやき 本来の「おやき」は、囲炉裏で、焼くものである。
囲炉裏は、既にどこの山村でもほとんど見かけなくなってしまったが、かつてはその果たす役割は大きく、生活の中心的な場所であった。
囲炉裏の灰の中で焼く、「おやき」のひとつが、「灰っころばし」で、表面がぱりっと焼けて、香ばしく、内部が、蒸し焼き状態になり、旨みが逃げ無いという利点があったが、灰が付着して見栄えがよくない点を改良して、現在お土産用などで市販される「おやき」になった。

中に入るアンは、小豆餡、野沢菜炒め、茄子味噌、カボチャ、茸…等々である。
昨今有名になった「おやき」は“素朴な饅頭”と言う印象が強いが、一部の地方では余り飯を小麦粉などでつないで団子にし、茹でてから焼く物を「おやき」と呼ぶこともある。
これには餡は入らず、どちらかというと「五平餅」に近い物であるが、砂糖醤油などを付けるとおやつにはなかなかである。
(筆者が子どもの頃母に作ってもらった物は、この中身なし、砂糖醤油の「おやき」である)

「おやき」の出典には諸説あり、古くは縄文時代などとも言われ、「縄文おやき」等という商品もある。
「おやき」は信州に古くから伝わる郷土食。信州の農村がまだ貧しかった頃、米の不足を補う代用食として作られていた家庭の味である。
余り飯を使い、粉で増量して作る「“中身のない”おやき」などは、まさに代用食その物であり、現在一般的になったアン入りの「おやき」の原型なのではないだろうか。
中身の入った「おやき」はもちろん美味しいが、私にとっての「本当のおやき」は、貧しくも懐かしい、あの母が焼いてくれた「“中身のない”おやき」なのである。

長野冬季オリンピック天覧の際、天皇皇后両陛下、皇太子殿下御夫妻も「おやき」を召し上がったとか…
こちらはもちろん、商品化された饅頭風の「おやき」であると思われる。

長野県教育委員会は、昭和58年7月に「おやき」を現代の味の文化財に指定している。



信州蕎麦(そば)

もりそば 一般に言う“蕎麦”は“蕎麦がき”に対し“蕎麦切り”とも呼ばれる。
この蕎麦切りは、文献的に一番古いのが信州説だそうだ。
正保二年(一六四五)に刊行された俳書『毛吹草』に「そば切りは
信濃国の名物。当国より始まる」とある。
さらに、平成四年には「そば切り」の日本最古の文字が長野県木曽地方で発見されたという。


 (物語・信州そば事典:中田敬三著/郷土出版社より)

ソバの花 ソバの花

江戸っ子だってねぇ、ソバ食いねぇ!

なぜ、江戸っ子がソバなのか、いまだによく分らないのだが…
(江戸っ子だってねぇ、鮨食いねぇだったか?)
ともあれ、粋なソバ食いは、ひょいと手繰ったソバの、ほんの下、2〜3分の所だけに、ちょいとツユを付けて、一気にずずい、と噛まずに飲み込む。
グチャグチャ噛んではイケナイのだそうである。
「ソバなんてぇもんはな、喉ごしを味わうモンでぇ。牛みてぇにくたくたしちゃぁいけねぇ!」
と言ったところである。
そして、ソバ食いはいまわの際に
「あぁ、俺ぁ死ぬまでに一遍、ソバぁ、どっぷり汁につけて、噛んで食いたかったなぁ」
と、言い残すのである。

早い話が、自分でおいしいと思った食べ方で好きに食べるのが一番ではないだろうか。



付録資料:長野県歌『信濃の国』

東京都民で『都歌』を歌える人はおろか、聞いたことのある人さえ少ないのではないだろうか。
(ちなみに『都歌』は普及宣伝を東京都生活文化局が担当し、当局主催の水・金曜コンサート並びに各種行事において、演奏している。とのことだが…
筆者は40年以上東京に住むにも関わらず、数十年前にTV番組「題名のない音楽会」で故 黛敏郎が『恐らくどなたも聴いたことがないはず』と前置きの後、演奏した物を聴いたのが最初にして最後である)
長野県では、この県歌『信濃の国』を「県民のほとんどが歌える」と言われ、どこへ行っても誇り高きこの歌が朗々と歌われるのである。
(もちろん、信州産である筆者も歌えます)
県のホームページにも由来や歌詞、長野県警察音楽隊による
演奏も収録されている。
東京都の歌は、東京都ホームページでは演奏や歌詞、由来はおろかその存在資料すら発見することが出来なかった。(2000年8月:本稿初出時)
現在(2002年9月)は東京市歌/東京都歌として掲載されている。
東京市歌は高田耕甫 作歌(作詞?)、山田耕作 作曲で大正15年制定。
東京都歌の方は制定年 昭和22年で、原田重久 作詞、深尾須磨子 補作、作曲は加須屋博となっており、楽譜(PDF)も公開されている。
「東京都」は、昭和18年7月、東京府と東京市の合併により発足したが、戦時中であったため、「都歌」は事実上後送りとされ、終戦後の昭和21年10月に制定することになったとのことである。

最初に「長野県民歌」が決定されたのは昭和22年。現憲法施行を記念して公募されたものだったが、県民には好んで歌われず、ほとんど忘れ去られてしまった。
現在の「信濃の国」は、明治32年浅井洌により作詞され、明治33年に北村季晴により作曲、当時の師範学校の行事の時に歌われていたものだとか。その時の学生が、教師として県下に散り、「信濃の国」を各小学校で教え、親から子へ、子から孫へという形で、事実上の県歌として歌い継がれてきた歌なのだそうだ。
昭和41年に県章やシンボルが決定になり、県民意識の高揚のためにも「信濃の国」を県歌に制定してはどうかという気運が盛り上がり、昭和43年5月20日に県歌として制定されたとのこと。

詳しくは 長野県のホームページを参照のこと。

関連リンク

長野県そば工業技術研究会

県歌『信濃の国』(長野県ホームページ)

キッズチャンネルながの

ジャム

ルバーブジャム 名産品としては、ジャムも忘れるわけには行かない。
あらゆる農産物を豊富に生産する信州では、それらを生かした特産物として各地で保存食品が生産されている。
その中でも人気があるのがジャムである。
県外でも有名になったブランドもあるが、実は東京文化学園浅間高原寮特製のジャムもあるのだ。


写真は“ルバーブのジャム”。
ごく少量しか生産しないので、これを食べることが出来た人は幸福といえよう。

残念ながら、数量限定、かつ季節限定生産なので浅間高原寮で見つけたときにお買いあげいただくしかない…



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