東京文化学園の誕生とその精神

東京文化学園の誕生とその精神

--初代校長新渡戸稲造と創立者森本厚吉--

藤井 茂





新渡戸精神を縦承した森本厚吉

− 『東京文化学園』初代校長に就任を要請 −

一 教育者・新渡戸稲造

 新渡戸稲造の伝記の類を読んでだれでも気づくのは、彼は単純なある一つの専門家に規定できないということだろう。それは、新渡戸があらゆる方面に興味と深い知識を持っていたことによるのだろうが、そういう中でも新渡戸を何か一つの職業人に規定しようとすれば、私はやはり教育者という側面を重視したい。
 結論から言えば、札幌農学校、京都帝国大学、旧制一高、東京帝国大学、東京女子大学などの教授や校長を歴任した教育者の時代はもちろんのこと、台湾総督府や一般雑誌に寄稿、国際連盟事務局次長、大阪毎日新聞社や東京日日新聞社顧問の時代を包含しても、やはり教育者的な面影がそこには色濃く感じられるのである。
 新渡戸の偉大さは、時代ということもあろうが、男子教育がほとんどだったころに、女子教育の必要性を早くから痛感していたところにある。遠友夜学校の経営に尽力したのは、その表れだが、有名なのは大正七年に東京女子大学学長となって女子教育に尽力したことだろう。

東京都中野区にある現在の東京文化学園
東京都中野区にある現在の東京文化学園(1997撮影)

 しかし、女子教育といえば、教え子である森本厚吉の要請を受けて新渡戸が昭和三年に校長となった女子経済専門学校も忘れるわけにはいかない。この学校は東京都中野区にあるが、現在、東京文化学園と称し、幼稚園から短期大学までの一貫した女子教育を行っている。教職員と女子生徒たちとの関係が、まことに融和したしっとりとした学校で、過日、訪問した時、よくもこのような学校が東京の真ん中にあるものだと不思議に思ったものだった。
 しかし、小林弘志校長(注:1995年当時)や森本晴生氏(森本厚吉の孫で現在同校理事/注:1995年当時)に案内されて学校を一巡したとき、私はかすかに分かったような気がした。初代校長の新渡戸の精神と教え子で創立者の森本厚吉の精神とが合体して、偏差値に毒されない自由で伸び伸びとした教育がなされていることを感じとったのである。
 それはまた、この学校を訪れるきっかけをつくってくれた神戸有見子さんという主婦のかたの言葉からも察することができる。「娘がこの学校に入ってるんですけど、だんだん明るく素直になってきました。恐らく学校の教育方針がいいからだと私は思っています」
 神戸さんの言葉に、私は素直にうなずくことができた。この学校に同じような思いを持っていたからだろう。
 このことがあってから、私は新渡戸にとってこの学校がいかに重要な意味をもっているかということに気づかされた。それと同時に、なぜ今まで新渡戸研究家のほとんどがこの学校を看過してきたのかと残念に思った。確かに、この学校の教職員の方々は、新渡戸精神を日々学校生活の中で具現し実行しているにもかかわらず、ほとんどそのような学校の宣伝をしなかったはずである。このことも、あるいは新渡戸精神を忠実に守ってのことかもしれないと思うと、逆に私は、これは広く知らしめなければならないという思いにかられないわけにはいかなかった。
 それと同時に、この学校の創立者である森本厚吉のことをほとんど知らないことにも気づかされた。大学で日本思想史を学んでいた時、吉野作造らと大正デモクラシーを推進した人であることは承知していたが、新渡戸との関係は、ほとんど知らないに等しかった。しかし、調べていくうちに、新渡戸を知るうえで森本の存在がいかに重要かを認識させられることがしばしばだった。そして今は、森本に対し、私は次のように評価をしている。「教育という分野で、新渡戸の精神を継承し発展させた唯一の人」と。
 ここでは、そういう森本の略歴を述べ、新渡戸との接点にも触れながら、新渡戸と森本とがつくったともいえる女子経済専門学校(現東京文化学園) の精神に迫ってみたいと思う。

二 新渡戸稲造と出会うまで

 西郷隆盛を首領とする反政府戦争である西南戦争の最大の死闘といわれている田原坂の激突が繰り広げられていた明治十年三月、当時の京都府舞鶴田辺の増山家に森本は生まれた。
 森本の少年時代は海辺で送った。浜育ちだったので水泳はお手のもので、楽しい腕白生活を過ごしていたが、十歳のとき、増山家から森本家に養子入籍した。
 養父森本活造は明治維新の異変に遭遇した貧乏士族だった。維新後、小学校教員を務めていたが、思い立って京都や大阪で代数、幾何、簿記などを学び、生糸会社の経理員から鉄道員になって、さっそうたるサラリーマンとなった。
 家計は常に貧しく、慣れない仕事で三度も失敗したが、めげることなく明るい性格で学問好きでもあった。森本夫妻は実の子のように少年厚吉を愛し育ててくれた。
 小学校を終えた森本は、もっと勉強をしたく、特に英語を学びたく、そのため東京に出たかった。森本の熱望を知った母は、夫の事業の失敗で蓄えもなかったことから、恥をしのんで初めて質屋ののれんをくぐり、旅費とその後の費用を調達してくれた。
 こうして東京に出た森本は、麻布中学の前身の東洋英和学校に入学した。森本は好んで外人教師の家を訪れ、学校以外にも英語の上達のため機会を求める努力を惜しまなかった。森本は、英会話はいうまでもなく英語演説、英語劇、英文学と、およそ英語と名のつくものは何でも貪欲に求めていった。
 英語に上達した森本は明治二十七年六月、東洋英和学校普通科を卒業した。新渡戸稲造の名を知ったのは、この直後だった。卒業を間近に控え、森本はぜひ、この人から学問を習いたいという思いが強くなっていった。その衝動を抑えることができなくなった森本は、遂に札幌に向かうのである。
 同年九月、新渡戸のいる憧れの札幌にやってきた森本は、北鳴学校という札幌農学校に入るための私立の中学校に入った。ちょうど三年前にできたばかりのこの学校は、新渡戸が初代校長である。森本は、ここで早くも新渡戸から教えを請うことができるなどとは夢にも思わなかったことだろう。
 新渡戸校長は倫理の時間に、よくこんな話をした。
 「いいかい、人物さえ優れていれば、学問がなくても決して恥じることはないんだ。いたずらに成績ばかりにとらわれてはいけないよ」
 森本は、人生に大切な事柄を分かりやすく、しかも、えもいわれぬ面白さとユーモアを交えて語る新渡戸校長の表情に、身を乗り出すようにして吸い込まれていった。
 翌年三月、森本は北鳴学校を終えたが、半年余りしかいなかったにもかかわらず、非常に充実した時を過ごした。ここに来る前に新渡戸の評判を聞いて入ったのだが、うわさに違わず新渡戸の講義は素晴らしいものだった。知育教育よりも人格教育に力を注いだ新渡戸の講義に、森本は満ら足りたものを感じた。
 当然のように、森本は上級学校として新渡戸が教えている札幌農学校に進んだ。ここで森本は生涯の親友を得る。後に小説家となる有島武郎である。
 札幌農学校での森本を、有島は次のように伝えている。
 「その当時の森本君は、生きた独立雑誌のようだった。級友からも全く孤立して沈黙を守っていた君が、時たま演壇にでも立つと、火のような憤激と侮蔑の言葉が、一般のキリスト者に向かって吐き出された。また、森本君は罪の鋭い自覚なしには、天国の門は開かれぬと言った。それは、その当時、内村先生が極説したところであって、森本君はまた熱烈なその共鳴者であった」
 これからすると森本は、新渡戸の人格主義の講話に影響を受けながらも、内村鑑三の無教会主義キリスト教にも傾倒していたらしい。有島によると、「生きた独立雑誌のようだった」というから、それは峻厳で熱烈そのものだったのだろう。
 札幌農学校時代に森本が一番苦しんだのは、罪という観念だった。入言はしたものの煩もんが押し寄せ、三度のご飯ものどを通らない状態が続いた。当然のように、死の誘惑にも駆られた。
これを救ったのは、新渡戸から示唆を得て読んだカーライルの「サーターリザータス」と、もう一つ卒業記念に有島と研究して著した「リビングストン」伝だった。『サーターリザータス』を読み、リビングストンの生き方を学んだ森本は、次第に明るくなり、元気を取り戻すことができたのである。『リビングストン』伝は恩師である新渡戸に捧げられた。森本らが、いかに新渡戸を信頼し敬服していたかを如実に物語っている。
 明治三十四年八月、札幌農学校を卒業した森本のその後は、東北学院で二年間教えたあとジョンズ・ホプキンス大学大学院に留学し、母校である北海道帝国大学に奉職し、消費経済学という学問を確立した。その講義は明快で分かりやすく、学生間に非常な人気があったといわれる。
 森本が最も本領を発揮した時期といえば、それは大正半ばごろからだろう。経済学の明快な講義はもとより、文化的な生活の普及のため北海道内はいうまでもなく全国を講演行脚に出かけている。また親友・有島武郎や吉野作造らとともに『文化生活』を創刊して、その普及に拍車をかけた。吉野の論は、この雑誌に基盤をもっていたともいえるはどだった。
 文化生活運動から生まれたものに、森本が実際につくってみせた文化アパートメントがある。こうした一連の運動の中から、生まれるべくして生まれたのが無駄の少ない合理的な消費生活を女子のために勧める経済専門学校だったといえる。
 もちろん、この問にも恩師新渡戸と交流が続いていた。いろいろアドバイスを受けてはいたのである。しかし、森本と新渡戸とのその後の最大の接点は、何といっても昭和初期に創立したこの女子経済専門学校開校の時だろう。

三 最初は名誉校長の腹案

 新渡戸が女子経済専門学校(現東京文化学園) の初代校長に就任したのは、昭和三年四月だった。昭和三年といえば、新渡戸の受洗五十周年の記念すべき年に当たっていて、そちらが一般的には有名だが、女子教育でも重要な最後の仕事にかかった年でもあった。
 創立者である森本は、当時ジェノバから帰国したばかりの恩師・新渡戸を訪ねた。森本の腹には、今度自分が女子経済専門学校を開校するにさいしての女子教育事業について聞いてもらい、名誉校長にでもなっていただければありがたいという思惑があった。新凌戸が常に繁忙を極めていたことは衆知のことだったので、校長にとはどうしても頼めなかったから、せめて名誉枚長にという腹案を持って会ったのである。
 ところが新渡戸は、森本の女子教育にかける熱意を聞いているうちに、こんな質問を不意にした。
 「名誉校長と普通の校長とは、どんなふうに違うんだい」
 それに対し、森本は型どおりの説明をした。しかし、この時、森本には新渡戸にかすかに脈があるように見えた。それで、こうも言ったのである。
 「私が一番上に立つと誰も叱る人がいなくなるので、新渡戸先生に是非とも校長になっていただきたいんです」
 新渡戸は、にんまりとした表情で言った。
 「よく分かった。僕は君たちのやることは、どんなことだって信頼するよ。そして、その事業を助けたいんだ。君の言い方からすれば、普通の校長のはうが都合がいいんだろう。それだったら、その普通の校長とやらをやらせてもらっていいよ。君も知ってるように、僕はこれまで、そうした女子専門教育の必要性を充分に感じて、幾つかの学校に関係してきたんだから」
 森本の心をくんで快く校長を引き受けてくれた恩師・新渡戸に、森本はこう言っている。
 「その時ほど嬉しかったことを私はかつて経験しなかった」
 話が一段落したあと、新渡戸は森本に向かって、しんみりとこんなことを言った。

博士を囲む女子経済専門学校の生徒たち。
昭和8年春、
小石川の新渡戸博士邸で博士を囲む女子経済専門学校(東京文化学園の前身)の生徒たち。
右端が森本厚吉。

 「君が帝大の教授をやめて専門学校の先生になれば、世間ではそれだけ落ちぶれたように思うだろうが、僕はそれだけ君を見上げるよ」
 当時、周囲には、北海道帝国大学教授の職を投げうって女子教育に打ち込もうとする森本の行為を多分に揶揄(やゆ)する人がいたらしく、いち早く新渡戸はそれをかぎとっていたのである。
 それにしても、そんなふうに言われた森本は、どれほど力強かっただろうか。涙が出るはど嬉しかったに違いない。
 たったこれだけの新渡戸の行動と言葉を読んでも、いかにかつての教え子・森本に寄せる期待が大きかったかが非常によく理解できるだろう。
 新渡戸自身も、もちろん任せられたからには、この学校のために身を堵して尽力しようという気持ちにあふれていた。新渡戸はその時の決意を森本に次のように語っている。
 「東京には立派な学校が既にたくさんあるが、あまりに規則や型にはまりすぎている。尊いの人の魂を自由に伸ばさせるには愛の教育を基調とせねばならぬ。経専は親心をもって教える良教師による愛の学校であらねばならぬ。生徒をかわいがることによって、しかる以上の効果をあげねばならぬ。幸いに経専がそうした学校として成長してゆくならば、他に幾つかの欠陥があったとしても、日本一の学校となって役立つであろう」
 つまり、それは人格主義に基づく愛の教育で、日本一の学校にしようというのである。これは、その後、着実に実行されて、冒頭に記したように、現在「教職員と女子生徒たちとの関係がまことに融和した、しっとりとした学校」になっている。

四 親心でもって教えよ

 校長に就任した新渡戸は、女生徒を朝な夕なに導く教職員たちのために、教職員心得を述べた。それは口頭でしたものだが、現在でも残されている。

教職員心得

 本校の教職に就くに当り私は自ら心得置き度き事がありますから左の通り陳述して御助力を得度く存じます 若し幸にして御同意下さらば御署名を願ひます
東京女子経済専門学校附属高等女学校
新渡戸稲造
昭和六年四月四日

一、人の子を預る以上は親心を以てこれに対すること
一、学課を授くるに智育のみに偏せざるよう思慮と判断力の養成に努むること
一、宗教は全然自由たるべきも生徒に対し宣伝がましきこと無きやう心得ること
一、毎日授業を始むるに当り一分間沈黙を守ること
一、予習は時間の許す限り校内に於てなすやう奨励すること
一、生徒に関係ある人より贈り物ある時は決してこれを受けざること 但し辞し難きときはその処分を校長若しくは主事に相談すること
一、同僚に就いて互いに批評がましきこと又金銭の貸借を慎しむこと
一、学校の経営行政又は人事につき改善を要する件ありと思うときは遠慮なく直接校長又は主事に之を諮り生徒又は第三者にはからざること
一、生徒に時間励行勤勉努力等の範を示す意味に於ても出勤退出又は授業時間はこれを厳守すること

 一つ一つが、いかにも新渡戸らしく、まるで新渡戸の声をじかに聞く思いがしてくる。どれ一つとして、分かりにくいものはない。一読して意味が明りょうだ。特に興味深いのは、一番最初に記されている「親心」という言葉である。他人の子供に対しても、自分の子供のように親の気持ちでもって、ある時は厳しく、ある時は優しく接しなさいということだろうが、なかなか含蓄のある造語だと思う。普段から巧まずしてできた新渡戸ならではの心得だと思う。
 もう一つ興味深いのは、授業開始前の一分問の沈黙である。東京文化学園では、これを今でも実行していて、授業に入る前の生徒の精神統一に非常に役立っていることを聞いている。これは恐らく、新渡戸の札幌農学校時代からの習慣をこの学校に持ち寄ったものだろうが、いい習慣を飛び火させたところに新渡戸の真骨頂をみる思いがする。

五 新渡戸の訓辞から

 分かりやすい教職員心得をみて、新渡戸のこの学校にかける並々ならぬ期待と決意とを感じるが、この学校とここの女子生徒に新渡戸はそれまでとは違った意味で愛情と慈しみを感じたらしい。それは、現在まで残されているこの学校の校史や同窓会報などの中に垣間見ることができる。例えば、昭和五年の女子経済専門学校同窓会会報発刊に際して新渡戸が述べた言葉を紹介しよう。
 「かつてイギリスの宰相ディズレーリー卿が、ある大学の総長に選ばれた時、その演説で、英国民としてこの地位につくほど大なる名誉はない、と言ったことがあるが、彼は内閣総理大臣として長い間、イギリスはおろか世界の政治舞台に輝いた人であるにもかかわらず、教育の最高学府の長たるの名誉にすぎる名誉はないと言ったのは、ただ一場のお世辞とは思われない。しかし、教育に従事することは、名誉というよりは楽しみの大なるものである。昔、孟子が言った言葉にも、育英の事業をもって君子三大の楽しみの一つ、と言ったのは今なお然りである。なお教育の関係という広い活動範囲の中についても、学校の創立にました愉快はない。私も学校創立については四、五回の経験もあるが、母が子を生むという感じがこのようなものではないだろうか、と思われるはど愉快なものである。それもそのはずで、生んだことがいかに成育するか発展のありさまを視察するはど愉快なことはない。それに個人ならば天性の性質を左右することは、生みの親でもできないが、学校であれば制度を改めたり課程を変じたり、教師を入れ替えて学校の性質を変更することも可能である。のみならず、一個人についても、三つ子の魂百までもというが、学校についても同然で、創業の時の精神は良く生きて自ら校風となり、数百数千の卒業生が各個性を別としても、彼らの中に共通な校風すなわち学校の精神を持続するものである。本校は創立まだ日が浅いが、その浅いところに重要性が存する。まだ新しいうちに団結して将来を導く機関が欲しい。今回できた同窓会とは、右の目的を達する最も有効なる道と思えば、その創立を祝い、またその機関雑誌の発刊を祝福せざるをえない」
 女子経済専門学校にかける新渡戸の心が、ここにしっかりと表現されている。校長としての責務より、学校を創立し、そこで生徒たちを育てることが楽しくてたまらないといった新渡戸の精神が、あふれんばかりに表現されていて、いかにも新渡戸らしい。 新渡戸はこの学校で折にふれて女生徒の中に入り、さまざまに語りあった。十代半ばから後半にかけての女生徒たちは、それぞれに悩みや煩もんを抱えていたと思われるが、そういうものをそれとなく引き出し、それとなく解決の糸口を与えてあげるという日常だった。現在残っている新渡戸と女生徒との写真には、そういうこまやかな愛情に裏打ちされた関係が、どことなく漂った感じのよく分かるものがある。
 昭和六年三月の女子経済専門学校卒業式での訓辞は、特にそういう新渡戸の心のこもった言葉にあふれたものだった。
 「犠牲は、ただ金銭をもって計るべきではない。それを考えると、あなたがたは犠牲なくして教育を受けることはできないと私は思う。あなたがたの今日あるというのは、犠牲の賜である。犠牲というと、何だか暗いような、辛いような感じがするものだが、苦しいの辛いのと言っているのは本来の犠牲ではない。自分を捨てて、その身になって、その人のために行うのがまことの犠牲というもので、それを最もよくなすものは親である。ところが、親ばかりにかぎらない。学校の先生も親に次いで犠牲を払っておられる。要するに人生というものは、お互いの犠牲で成り立っている。そして、この犠牲というものは苦しい顔をしたりなどするものでない。自分がこれだけの不自由をするために、誰か相手の人が何かよいことを得るだろう、私は何の理由で犠牲にならなければならないのだろうなどというのは、本当の犠牲ではない。若い方々、ことに女性の皆さんたちが荒波の世の中に出られるという時に当たって、堅い決心を要すると同時に、きょうの明るく澄みわたった浅緑の空のような広い心を持ち、それと同時に、自分の今日あるのは誰の犠牲の結果であるか、誰の賜であるかということを忘れないでほしいと思う。これを忘れないというのが、明るく世をわたる所以である。私のために、これほどのことを考えてくれる人があるのだという気持ちがあれば、百万の敵も恐れるに足らない。私を嫌っている人があると、世の中は暗くなる。広い世の中だから、嫌う人も憎む人も悪口をいう人もある。けれどただ一人、私をかわいがってくださる人があり、千万人の敵に出遭っても、ただ一人私のことを祈って、私のために一身を犠牲にしてくださる人があるというのは、これほど心強いことはないということを考えてほしいのであります」
 社会に巣立っていく乙女たちに、犠牲をいとわず明るく世の中をわたるようにとの訓辞は、どれほど感銘を与えたことだろう。この時の訓辞では、すすり泣く声が方々から聞こえたと記されているが、卒業式だったからという理由だけではなかったはずである。旧制一高の時もそうだったが、新渡戸の生徒への訓辞には、不思議と人の心を揺り動かし感動を与える何かがあるようだ。それは真心から発した慈愛に満ちた言葉だからであろう。

東京文化学園の図書館にある新渡戸稲造の額
東京文化学園の図書館にある新渡戸稲造の額

 この学校には、このような新渡戸の言葉が数多く残されている。それらは必ずしも記念誌や同窓会報の類ばかりではない。それは体育舘の隅だったり図書室の壁に掛けられている新渡戸直筆の額にだったりする。しかし、何もそんなところを改めて探さなくても、ごく周囲に普通に見つけることができる。それは、この学校の教職員と女生徒たちの一人ひとりに会うだけでいい。新渡戸の心が自ずと宿っているような雰囲気が備わっているのである。

六 三つのH

 新渡戸が亡くなって六十年以上たつというのに、これはまたどうしたことだろう。恐らく、これを解く鍵は森本厚吉にあると私は思う。創立者である森本が、恩師である新渡戸亡き後も、新渡戸の精神的環境の中で女生徒たちを育て導いてきたからにほかならない。そしてまた、森本亡き後も、妻静子や関係者が、その精神を今に継承し続けているからだろう。
 そういえば、この学校の記章には一つの盾がついている。その盾には、二つの小さなHと一つの大きなHとの組み合わせた文字が刻まれている。二つの小さなHは頭(HEAD)と手(HANDS)とを意味し、下の大きいHは心(HEART)を意味している。
 Hは頭を働かせることだが、単に知識を詰め込むだけではない。実生活にその知識を活用しうる頭脳である。
 もう一つのHは手であるが、これは片手ではなく両手で一生懸命働き実行力のある手である。
 最後のHは、高きこと天のごとく、広きこと地のごとき心の持ち主を目指したものである。こうした心を養えば、自然に愛の人となれるので明朗快活になり、自分のことばかりにとらわれない親切な人となれるというものである。
 この三つのHを実践することで最終的に到達するのは「人格の後光を放つ人間」ということだった。これは新渡戸が普段から常に言っていた人間像だった。
 そういう新渡戸の言葉をいち早く感じ取り、森本が考案して基礎づけたものの象徴がこの学校の記章だが、こういうちょっとしたアィディアにも、新渡戸の慈愛に満ちた精神を教育に継承し発展させようとする森本の思いを感じないわけにはいかない。

七 恩師と同じ道を歩む森本

 確かに森本には、恩師である新渡戸に共鳴し、最終的には女子経済専門学校校長に推挙するという伏線があった。数えきれないほどあったと言っても過言ではない。それは、ただ単に教え子という関係からだけで片付けられるような単純なものではない。
 その答えは、二人の生涯を比べることで導き出せるような気がする。
 やんちゃな子供時代、養子に出され、英語に目覚めていく過程。札幌農学校時代に受洗はするものの、宗教ばかりではなく人生そのものに煩もんして深刻な状況に陥るがカーライルなどの書物で次第に明るさを取り戻していく過程。ジョンズ・ホプキンス大学など外国の大学で苦学しながら学び、流ちょうな英語で日本を紹介した青年時代。数多くの学生を魅了したその分かりやすい講義。日本人の意識の向上のため多くの本を著し啓もうに努めたこと。特に女子の慈愛に満ちた精神修養と実生活に役立つ合理的知識の向上のため女子教育に従事したこと。
 このどれ一つを取っても、新渡戸と森本は完全に一致するのである。新渡戸の教え子は多いし、弟子と称する人も多いが、これほど人生の数々の事跡が一致する師弟もいないだろう。
 ここで言っておきたいのは、森本はこういう人生を巧まずして歩んだのである。決して師である新渡戸に合わせようとか追随しようとか思ったわけではない。自分の思うところを進んでいったら、ほぼ恩師と同じような道を歩いていたというわけである。
 こういう人生行路からしても、昭和初期、森本が女子経済専門学校を創設した際、初代校長に恩師・新渡戸を推挙した理由が分かろうというものである。ごく自然に浮かんだ恩師に、多少の緊張はあったものの、声をかけ、すんなりといったというところが実情らしい。それもこれも、新渡戸から深くその人格を愛され信頼されていた森本だからこそできたことだったのである。

八 最後の安らぎ

 昭和に入ってからの新渡戸の周囲は、決して安穏としたものではなかった。何かと新渡戸の心をいらだたせることが多かった。田中義一内閣の優詫間題、太平洋問題、松山事件といった問題が新渡戸の心を深刻に悩ました。
 そんな中にあっても、新渡戸は女子経済専門学校に戻ってくると、女生徒たちを相手に慈愛に満ちた態度で接した。次の世代を背負うことになる女生徒たちに優しく語りかけ、悩みを聞いてあげ、丁寧に教え導いた。
 女生徒たちは新渡戸校長の周囲がそのような状態であるなどとは誰一人として思わなかった。新渡戸もまた、この学校では、そんな表情を見せるはずもなかった。
 これから察するに、このころ、新渡戸の心を一時たりともゆったりとさせた唯一の学校が、この女子経済専門学校だったのではないだろうか。恐らく、この推測に間違いはないと思う。周囲の苦悩が深刻であればあるほど、この学校の存在は新渡戸にとって何ものにも変えがたい貴重なものとして感じられたに違いない。
 だから始業式や卒業式はもちろんのこと、普段でも努めて学校に釆て女生徒たちの中に入って雑談した。その中に有意義な講話を交えながらも、和気あいあいとした雰囲気につつまれ、女生徒たちは幸福な気分になっていくのだった。
 新渡戸がこの学校に見えた最後は昭和八年七月五日だった。新渡戸にとっては、山積していた内外の問題を解決しようと悲痛な覚悟でもって渡来する直前のことだった。もちろん穏和な新渡戸の表情からは、そのような覚悟は全然感じられない。講話の内容も当面の国際間題などというものでは全くなかった。
 「来年の話をすると鬼ばかりでなく人間も笑うだろうが、こんな年寄りになると、いつ帰れるかわからないのでね。きょうは後光の話をしようと思う。人間には誰でも後光というものがあるんだよ。……」
 いつもの通り穏和な新渡戸校長の講話に耳を傾けていた教職員と女生徒たちは、新渡戸こそ、この日本で一番後光を放っている人のように誰もが感じたに違いない。本当に尊い話を聞いた感激で、拍手が鳴りやまなかった。
 約一ヵ月後、横浜港から新渡戸校長を元気に見送った女生徒たちは、そのまた約二ヵ月半後、カナダから悲しい知らせを受け取ろうとは夢にも思わなかった。優しいおじいさんのように女生徒たちから慕われた新渡戸だったが、森本の驚きは、いかばかりだったろう。
 新渡戸の没後、一ヵ月余り後の十一月十九日、女子経済専門学校で新渡戸校長追悼会が行われた。会には新渡戸と半世紀以上の親交のあった元北大総長・佐藤昌介をはじめ多数の名士が参列した。
 女生徒たちもそうだったが、森本もあふれる涙を抑えることができなかった。この春には親友・吉野作造を失い、秋にはまた恩師を失ったのである。
 しかし、いつまでも悲しんではいられなかった。新渡戸の残した「後光を放つ人」づくりのため、「親心」でもって学校経営と女生徒たちの教育に専念していかなければならなかった。
 森本の本当の試練と本領は、師である新渡戸が亡くなったところから始まったといえるかもしれない。



藤井 茂 (ふじい しげる)
現職 盛岡タイムス社・社会学芸部長 (注:1995年当時)
略歴 昭和二十四年六月二十二日、秋田県大館市生まれ
主な著書 「菊池寿人の生涯」「山屋他人」
現住所 盛岡市


「新渡戸稲造研究」第四号[(財)新渡戸基金刊・平成七(1995)年]所収
※本文は東京文化学園発行小冊子「東京文化学園の誕生とその精神」(1997)より


▽ 森本厚吉年譜

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