東京文化学園:新渡戸稲造文書


新渡戸書簡(岩手日報報道1999.12.25.より)

未公開書簡見つかる

ゆかりの東京文化学園が所蔵

【東京支社】 盛岡市 出身の思想家、新渡戸稲造が第一高等学校(現東京大学)の校長時代、心身共に苦難な時に静養先の札幌から同校教授にあてた書簡が見つかった。明治四二(1909)年当時の新渡戸は、一高の諸問題や校長自身への批判、中傷、反対運動に遭って悩み、 札幌・豊平館などで静養していた。新渡戸研究家らは「このときの心身の状況、反対運動への態度、信念を知り得る貴重な資料だ」と話している。

札幌・豊平館

一高(現・東京大)校長時代に排斥受ける

新渡戸稲造の苦悩浮き彫り

 この書簡は、新渡戸が晩年に初代校長を務めた女子経済専門学校を前身とする東京文化短期大学などを経営する東京都中野区本町の学校法人東京文化学園(森本晴生理事長)が所蔵。
 森本理事長によると、今年十月に学園の同窓生が「近所の方が所持していた。新渡戸が校長をしていた母校なら大事に扱ってくれるだろう」と託されたという。

静養先から同僚にあて

学校への思い伝える

新渡戸は明治三十九年から大正二年までの六年間、一高校長を務めたが、書簡は校長在任中の明治四十二年六月十二日付、一高の谷山教授にあてた物。巻紙に約三百六十字したためられている。
 内容は「東京より諸種の新聞来着 何れも小生の不評判並に排斥運動等の記載あり(略)学校並に職員諸彦に御迷惑相かけ候(略)北海道に参り候とてこんなに悪口を云ハれ候てはウッカリ病気ニもなられず兼而申述通り神経衰弱と申す病は同情を得ぬ疾なり 然し世の評判も一味ありて面白きものに御座候」などと記されている。
 元 盛岡市先人記念館 長で新渡戸研究家の菅原昭平さん(七三)=盛岡市中堤町=によると、当時の一高は剛健主義、日露戦争後の軍国主義的な風潮、伝統、独善的な傾向にあった。新渡戸は人格、教養、社交性を強調し、生徒との人格的な接触を図る教育を実践した。これに対して一高の伝統を守ろうとする人や他の学校の学者から批判を受けた。
 このため精神的に参って、約一ヶ月間休暇を取って盛岡や札幌で心身をいやしたという。菅原さんは「休暇中の足取り、心身の状況、学校への思い、自身への反対運動への態度、信念を知る貴重な書簡だ」とし、「札幌滞在二十日間に他に手紙を出していないか、さらに新発見を期待したい」と話している。
 書簡を所蔵する東京文化学園には新渡戸記念館や新渡戸の銅像があるほか、直筆の額四点も所蔵している。森本理事長は「いずれ展示室を設置して公開したい」と話している。


新渡戸書簡(岩手日報より)

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