-1- 第341号  TokyuBunka Times  平成13年12月10日

「新渡戸精神を語り継ぐ集い」

関係学校・団体とともに開催

理事長 森本晴生

 さる10月14日(日)、新渡戸稲造先生のゆかりの学校と団体が集まり、「新渡戸精神を語り継ぐ集い」が本学園の講堂で開かれました。これは、財団法人新渡戸基金(盛岡市)と本学園の共催によるものです。
 新渡戸先生の令孫・加藤武子さんをお迎えし、新渡戸基金からは小野繁議長(岩手医大学長)、内川永一朗事務局長ら、東京女子大学からは船本弘毅学長、東山節子学長補佐、西野和子理事、拓殖大学からは小田村四郎総長など、多くの方にご参加いただきました。本学園の役員、教職員、同窓生などが参加し、新渡戸精神を分かちあいました。
 森本理事長の挨拶に続いて、新渡戸基金の内川事務局長から新渡戸基金維持会を作ったことと本学園が東京支部を引き受けたとが報告され、盛岡市先人記念館の初代館長である菅原昭平氏から「新渡戸稲造と東京文化学園」と題する講話を伺いました。
 湊くに同窓会長からは「私の先生 新渡戸稲造」の講話で、ご自身が女学校で新渡戸先生から受けた薫陶をふまえて、創立初期のお話を伺いました。



心の師 新渡戸稲造先生

同窓会会長 湊 くに

湊同窓会会長


 夏休み前に係の人から、「新渡戸先生の最後の教え子として話してもらいたい。」と、今日の講演の依頼がございました。
 新渡戸先生は昭和三年から八年の間、女子経済専門学校の校長として在職していらっしゃいましたので、当時のことをよくご存知の先輩を訪ね、教えていただくことにしました。以下は、東京文化の初代同窓会長の岡田千代野さんや八十八歳になられた遠藤すみれさんをはじめとする昭和七年の先輩からお聞きした話でございます。
 新渡戸先生は、週に一回は時事の話をなさったそうです。世の中の移り変わり、その他の話をなさったそうです。それから、生徒たちに
「一週間に一回でいいから、一行でもいいから、『今日は元気だったよ。』とか『今日は雨が降っているよ。』、『今日はちょっとこうだ』とか、家のほうに必ず葉書を出しなさい。」
とおっしゃったそうです。
 昭和六年に満州事変が起こり、日本は非常に大変な時期でした。そんな時に新渡戸先生は、
「我、太平洋の橋にならん」
と、アメリカに発つご決心をなさいました。そこで、その時の在校生、専門学校生も付属高女の生徒も全員、横浜の港でお見送りをいたしました。龍田丸のデッキで新渡戸先生のお話をうかがったそうでございます。
「今、時代は非常に難しい時になっている。しかし、僕は行かなくてはならない。僕が居ない間は、森本先生を中心に、頼むよ。」
生徒に懇々とお話しされたそうです。
 さて、新渡戸先生は、「沈黙」ということについてもよく話されました。また、校歌の内容についても3H精神についても、新渡戸先生は至る所でお話しになられたそうです。 ここまでは、私が上級生からお聞きした話でございます。
 新渡戸先生は、昭和八年四月にアメリカからお戻りになっています。
 私はこの四月に入学いたしました。
 春の体育祭の前日、新渡戸先生が学校にお見えになりました。先生が校門を入られると、もう、生徒たちが本当に飛びついて大変な騒ぎだったんです。振り返りますと、先生は本当にお疲れのご様子でしたが、学校に来て、生徒たちから「先生」「先生」って言われるのが本当にうれしかったのかなと、今日この頃思ったりしております。私どもは一年生なので、先生にまつわりついたり、造花を先生の帽子にさしたり、手をつないで走っていただいたりした六十六年前の記憶がいまだに残っております。
 この年、カナダへお発ちになるその時に、先生は全校生徒を集め、「後光」についての話をなさいました。
「知り合いの女の先生の学校を訪ねたら、生徒の数は少なかったけれど、みなとても明るい。もう、親切で丁寧で後光がさしているような気がした。」
「僕はいつ帰るかわからないけれど、森本先生や諸先生方のお話をよく聞いて、僕が帰ってきた時には、学校中が後光でまぶしくなるくらいになっていて欲しい。」
ということを綿々と話されました。
 本日、他の方々からも新渡戸先生のお話をうかがって、私は、「私たちは、偉大な先生から教えを受けたんだ。偉大な師のもとには、本当は、偉大な門弟が育たなければいけないんだ。」
ということを痛感いたしました。

(10月18日の講話をまとめたもの)


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