医学書院『助産婦雑誌』第54巻第12号(2000)

「産婆の近代から助産婦の現代へ」

大出春江
Harue OHDE
Assets from Midwives in the 20th Century


  1. はじめに

  2. 近代国家の形成と助産

  3. 「助産之栞」にみる産科医の産婆(助産婦)観

  4. 20世紀の産婆(助産婦)たち

    1) 笹川みす(1855−1918)と新潟私立産婆養成所

    2) 柴原浦子(1887−1955)と産児調節運動

    3) 入院助産の時代−Tさんの記したI助産院の日誌から−


  5. 結びにかえて: 21世紀の助産婦に引き継がれるべきもの
▼資料


1. はじめに

 助産婦がどのような助産の形をめざしていくことが、今後を切り拓くことにつながるのだろうか。そのヒントを探るために、助産の100年を振り返ることが、本論の目的である。
 民俗学の報告によれば、出産とは一人で、あるいは夫や母などの家族か近隣の出産経験をもった年輩の女性などの援助を受けて自宅(ニワと呼ばれる土間や納戸)や産小屋で行うものだった。経験ある女性たちの中でも半ば職業化した女性たちはトリアゲバアサンと呼ばれていた。こうした出産の場では資格をもった産婆が来るまで、産む女性たちは膝をついたり、天上から下げた力綱につかまるなどして、自分の娩出する力をもっとも発揮しやすい姿勢で出産をしていた 1) 。座産という体を縦方向に起こして産む姿勢から、横臥もしくは仰臥する姿勢に変わったのは資格をもった産婆が村々に入ってくるようになってからである。都市の一部の階層はすでに明治後期からこうした形を経験するようになるが、日本の各地でこうした変化が起きるのは1930年前後である 2)
 これらのトリアゲバアサンは、欧米をモデルとした近代化過程の中で、排斥されるべき対象として、あるいは再教育の後に仕事の継続を許可されるべき対象として扱われる存在となった。一方、出産する女性や家族の側から言えば、助産や医療の専門家を自宅に招くことは特別なことであった。そのため政府の目指した近代化が実際に日本の出産全体を変えるにはおよそ50年間を必要とした。いま、ここで新しい世紀における助産婦の役割を考える際に、もっともヒントになるのは日本の助産婦たちにとってフロンティアといえる時期にさかのぼってみることではないだろうか。産婆(助産婦)一人一人が自分の行動こそが出産を変えるのだと自負してきた時代と活動をみることが、新世紀における助産婦の再生を考える示唆を与えてくれると思う。

2. 近代国家の形成と助産

 明治政府の国家目標は、近代国家になるための整備をすることだった。そのために産婆(助産婦)に対し行った最初の規制1867(明治元)年12月24日に発布された産婆取締規則であった。
近来産婆の者共、賣薬之世話又は堕胎之取扱等を致す者有之由相聞へ、以之外の事に候。元来産婆は人の生命にも相拘はる容易ならざる職業に付き、假令衆人の頼みを受け、餘義なき次第有之候共、決して右等の取扱を致す間敷筈に候。以来萬一右様の所業有之ときは取糺の上、屹度御咎め有之可心得候間為心得兼て相達候事。
 産婆とは人の生命にかかわる重要な職業であるが、売薬や堕胎は許されないとしている。この規則には、しかし産婆とは誰かという積極的な資格規定がない。
 医師の資格規定や医学教育について定めた医制は1874(明治7)年、東京、京都、大阪の三府に向けて発布されたが、その第50条〜52条において、はじめて産婆に関する規定が見られる。それによると(イ)産婆は40歳以上で、婦人小児の解剖整理及び病理の体位に通じ、所就の産科医の眼前において平産10人、難産二人の実際の取扱をなして得た実験証書を所持する者を検して、免状を与えることを建前とすること、(ロ)経過措置として当分の間従来から営業している産婆については、その履歴を質して仮免状を授けることとし、医制発布後10年間において新たに産婆営業しようとする者には、産科医又は内外科医の出す実験証書を検して免状を授けることとするも、産婆のいない一小地方においてはその他の者でも医務取締の見計で仮免状を授けること、(ハ)産婆は急迫の場合のほか産科医又は内外科医の指図を受けずにみだりに手を下してはならないこと、(ニ)産科器械を用い又は方薬を与えることを禁ずる事等であった。
 ただし、医制の規定はそのまま実施に移されるに至らず、実際は各地方の取締規則に委ねられていたという。西洋医学を学んだ新しい産婆を養成するために産婆養成所が作られたが、それらは東京府、大阪府といった大都市では1876(明治9)年に作られたものの、地域によって養成所の設立はばらばらであった。1899(明治32)年「産婆規則」が公布され「(イ)産婆試験に合格した年齢満20歳以上の女子で、地方長官の管理する産婆名簿に登録を受けた者でなければ、営業することができないこと、(ロ)一カ年以上の産婆の学術を修業した者でなければ、産婆試験を受けることができないこと」等が規定された。
 この産婆規則の制定により、産婆の新規営業はすべて産婆試験の合格をその要件としし、1910(明治43)年の改正では、さらに内務大臣の指定した学校、講習所を卒業した者は、無試験で産婆名簿の登録を受けることができることとした 3)
 職業としての産婆は、医制によってその資格内容が明文化され、産婆規則の制定によって近代教育の下におかれた。このようにして国家規模の標準化が達成され、産婆の近代が始まった。

3. 「助産之栞」にみる産科医の産婆(助産婦)観

 急速な近代化の要請の中で、医師は産婆(助産婦)をどのように捉え、また期待していたのだろうか。「助産之栞」(1896-1944)創刊号巻頭において「助産婦の改良に就て」と題した論説で、緒方正清は次のように述べる 4)

抑も助産婦の業と云ふ者は、学問と実地と、どちらも必要なることは言ふまでもありませぬが、取分け実地の熟練は肝要であります。近頃医師の喋々と申して居ります、彼の防腐、消毒の二法の如きは、助産婦たるもの、一日片時も等閑にしてはなりませんもので、いと厳重に行はねばなりませぬ。若し之を軽々敷心得て行ひましたならは、母子ともども、彼の恐るべき伝染性の病毒を起さしむることは勿論、時には此の患者より、他の患者に其病質を伝へまして、数限りとなく蔓延するの恐があります。今日医学なり助産婦教育なり、大に進んで居る欧州の国々ですら、尚此の伝染病毒を十分に予防することが出来ませぬ。況んや学理にうとく、実験に乏しきのみならず、斯る伝染病毒の如何なるものなるか、夫さへ辨へぬ、我国の助産婦におきましては、実に剣呑の次第であります。然るに医師は是を軽々しく看なし、政府も亦厳重なる法令を出さず随て世人の注意を喚び起すことなく殆んど無頓着なる有様は殊に心外の事ではありませんか。(後略)
 緒方は助産婦にとってなによりも必要なことは「実地」における「其術」であり、指導者である産科医が教えられないのが問題だというのである。なぜか。緒方自身の説明はないが、それは産科医自身が正常産の介助をしてこなかったためであり、「妊婦、産婦又は褥婦に対する所置」を十分に教えることができなかった。産科医による新産婆教育におけるこの実地経験のなさが新産婆に対する「世人の信用を得ない」理由を形成していた、と捉えていたようだ。
 これらの問題解決策として、緒方は1)「助産婦の教授法を必ず一定にしなければなら」ないとする。そのために「恰好な助産婦養成所」を設置し「教授法及教科書を一定」にすること、2)卒後教育を怠らず、技術を常に磨くこと、3)助産婦の取締強化、4)医師自身の助産婦教育の重要性の自覚、5)助産婦自身が生活全般にわたる心がけをし、助産婦の品格を高め地位向上をめざす必要があること、6)助産婦研究会を開き医師の講演を聞いたり、相互交流を通して新しい情報摂取に努めること必要があること。以上の6点を挙げ、早速、その助産婦研究会の発足を呼びかけている。
 緒方の呼びかけにしたがい、月に1回定例会が設けられ、そこでの講演が翌月発行の「助産之栞」に掲載され、参加できなかった会員が読めるようになっている。
 緒方自身、まずは「学理」よりも「実地」の重要性を認識し、それゆえに研究会を発足させ、そこでの助産婦相互の交流と医師の講演による新しい情報の摂取を促したのである。しかし、創刊期の「助産之栞」は出産に関わる広範囲なトピックスを扱ってはいるものの、基本は症例報告にあり、正常分娩の助産術についての記載がないということは、緒方自身が「実地」として習得する課題と考えていなかった可能性がある。そうだとすると、「助産の栞」をみる限り、医師による新しい産婆(助産婦)教育は、その出発地点から、正常分娩の助産術を欠落させてしまったことになる。
 緒方病院で研修を積み、緒方とともに『産科学』を著し、また助産婦教育所講師としても活躍した高橋辰五郎は、『助産之栞』発刊の前年1895(明治28)年に新潟県に帰り、産科医院を開業し、併せて助産婦教育にも携わることになった。第3号雑録に掲載された「高橋産婆学校第1回卒業式に於ける校長高橋辰五郎氏の演説」の中で高橋は、「我新潟市の如き25年度の調査に依りますと生産1398に対する死産の数は201の割合でありまして、凡そ七分の一の多数を占めて居ります。そこで熱心に助産婦の改良を謀り之れをして漸に進歩させましたならば其死産数をして三分の一若くは半ばに減却させますことは容易でありませう」と述べ、教育を受けた助産婦(産婆)の輩出に期待を寄せている。
 その一方で翌月第4号雑報では「助産婦取締法の必要」と題し、「新潟県産児の死亡率明治28年中生産児1439人死産児235人にして100人中16人、凡そ6人に就き一人の割合なり。是れ主に助産婦の注意足らずして死産を遂げしめたるの責免るべからず」として出産の場における助産婦(産婆)の責任を強く追及している。
 緒方にしても高橋にしても、乳児死亡率及び妊産婦死亡率の低下という国家目標を実現するために、産婆(助産婦)教育には早くから熱心に関わっていた。それだけに、高い死亡率の原因も産婆(助産婦)にあるとして強く攻撃もしている。経験知だけで助産をする産婆を排斥し、教育を受け常に新しい情報摂取に努める新産婆(助産婦)を産婆(助産婦)教育の使命だと考えていた。
 では産婆(助産婦)自身はどのように自らの仕事を捉えていたのだろうか。明治期から昭和期にかけて3人の産婆(助産婦)をとりあげ、彼女らのライフヒストリーを通して助産職の変遷をみていくことにしよう。

4. 20世紀の産婆(助産婦)たち

 1) 笹川みす(1855−1918)と新潟私立産婆養成所

 新潟県に新潟医学校付属産婆教場が設置されたのは1881(明治14)年であった。1885(明治18)年には「県立甲種新潟医学校付属産婆学校」と改称され、新潟県における新産婆育成の中心であったが、1888(明治21)年県立医学校が廃校されると同時に、付属産婆学校も廃校されることになった。当時の入学者たちは「士族、医師家族、寺籍家族など……字を読みうる地方の中産知的階級の子女であった」という。開校から6年間に86名の入学生を迎え、39名の卒業生を出している。この6年間産婆学校で教鞭をとっていたのが河野貞であった。新産婆による新産婆養成が始まった。
 付属産婆学校が医学校と共に廃止され、初代の女子産婆教員であった河野が東京に去った後、新潟医学校付属産婆教場第1回卒業生であり、同校助教諭試補産婆生徒取締であった笹川みすは、廃校後これを引き継ぎ、単独で「新潟私立産婆養成所」を設立し、新潟での新産婆養成を継続させた。笹川の設立した産婆養成所は、その後移転し1898(明治31)年まで10年間存続した。3月すでに設立されていた高橋辰五郎の運営する高橋産婆学校と合併して、新潟私立産婆養成所は発展的に解消された。
 笹川はこれを機に産婆教育から手をひき、開業産婆として新潟市で活躍し、養女として迎えた姪に60歳で仕事を譲り、63歳で没したとある。
 笹川が産婆教場に入学したのが26歳、卒業生第一号となったのがその2年後、夫と死別したのがさらにその3年後である。夫と死別5ヶ月後には河野貞の後任として、教員助手となっている。笹川は旧姓である。笹川が養成所生徒のために1892(明治25)年に著した「産婆十三戒」には、職業産婆として心得るべき事が短歌と共に綴られている。
 「第一 順序 凡そ物を行うに次第を定め以て其道に従い我目的を全うせん事を勤むべし…第四 担任 産婦及び産児等は産婆の担任すべき至大のものなれば縦令健康にして純良の経過を得る者と雖も尚産婆は常規に従い懇親に職分を尽くし且つ産科の貧富を問はず平等に職務を施すべし…第五 忍耐 産婦に於て産婆の教示を守らざる事あるも強て圧制せず又敢て放任せず。反復撓まず丁寧に漸次諭告する事を勤むべし。…第八 沈黙 己に益あり人に益あるに非ざれば猥りに語る可からず。若し産婦の密事を他言するに於ては人の栄誉を損せしむるが故に産婆たる者は沈黙して専ら業務に従事すべし」
 第13条最後は「産婆は渾て此十三戒の趣旨を固守し身体と生命を犠牲に供し力の及ぶ限り其職分を尽すべし」と結ぶ 5) 。仕事を行うには見通しをもって臨むこと、産婦には温和に接すること、強制をしないこと、貧富に関係なく平等に向かうこと、プライバシーを絶対に守ること。抜粋して紹介したが、笹川が門下生に教えたかったこの産婆十三戒は、「富国強兵の一原素たる産児の生命を司る至重の職業なり」とする時代に拘束された表現はあるものの、産婆(助産婦)という職業にとって普遍的な姿勢を教えている。

 2) 柴原浦子(1887−1955)と産児調節運動

 『性の歴史学』を著した藤目ゆきの表現を借りるなら、近代の産婆は「性の倫理や衛生思想を…国民に根づかせる役割を期待され」「一般の女性を教化する指導者」という「国策の担い手」であった。その中で公然と産児調節運動を行い、また堕胎の相談にも応じた罪を問われて投獄され国家統制に抵抗した柴原浦子を藤目は紹介している 6)
 柴原は1887年広島県御調郡の山村農家に産まれた。高等小学校に進学できなかった柴原は「お国のために」看護婦を志し、資格を得た。その後皮膚科医師と結婚。数年後離婚。派出看護婦をしながら苦学し、産婆の資格を得た。1914年広島県沼隅郡に開業した。
 1917年2月、柴原は新たなる「産婆なき村の開拓」をめざして尾道市尾崎町の漁村に移住する。開業しても人々は謝礼の支払の心配して新産婆を敬遠していたが、柴原は自分の生活費をきりつめて極貧家庭のために脱脂綿などの出産準備から米や塩といった日常品まで手配し、産婦のかわりに家庭の世話もした。また衛生向上や子女の教育の必要、酒とばくちの弊害を説いて演説をし、町中を歩いたという。
 笹川みすがいうように、多くの産婆は助産職を「富国強兵の一原素たる産児の生命を司る至重の職業」と捉えられていた。しかし柴原が仕事を通して直面したのは、国家の問題ではなく人々の生活の問題であり、一人一人の女性とその家族の「生むか生まないか」という切実な悩みだったのである。藤目は1926年、現職の尾道市長の妾芸妓おしんが自殺をし、その理由が「おしんが妊娠したにもかかわらず市長が出産費すらださなかった」ためで、そのことを知って「かつてない怒りを覚えた」柴原が「市長を糾弾する急先鋒となり、…翌年一月市長を辞職に追い込んだ」というエピソードを紹介している。
 明治期に産婆の養成が政府の近代化政策の一環として急を要していたのは、高い死産率と乳児死亡率、および妊産婦死亡率を下げる必要があったこと、そしてもう1つが堕胎を防ぎ人口を確保するためであった。柴原の活動は国家目的に貢献しつつも、女性とその家族にとって差し迫って必要なことを、時によって国家目標よりも優先させ、そのことによって労働者家族から信頼されながら、産婆や産科医などの同業者からは排斥され国家の制裁を受けたのである。

 3)入院助産の時代−Tさんの記したI助産院の日誌から−

 産婆(助産婦)が女性の職業として確立された時代に資格を取得し、数多くの出産に立ち合い、その後病院分娩が主流になっていく時代を生きた助産婦をとりあげることにしよう。Tは1913(大正2)年東京神田に家具職人の長女として生まれた。10歳の時、震災で母親を失い、家も焼失した。両国に移り、女学校を卒業後和裁を習っていたが、職業的自立の方法を模索していた。就職に反対していた父が亡くなり、いくつかの職業を経た後産婆資格を取るためにイトコと東京府私立産婆学校に通うことにした。試験に合格し、1940(昭和15)年から1年間中野組合病院に勤務した。そこで100例の正常産を扱う経験をし、チームで濃厚な看護をする方法を学んだ。また産婆が正常産と異常産の区別をして、必要と判断する以外は医師を分娩室に入れないことも学んだ。事情により病院を1年で退職後、派出看護婦を経て、結婚し、疎開先の小田急線柿生駅付近でイトコと開業した。
 柿生でのお産は山間部のために、呼ばれてたどり着くと赤ん坊が生まれているというお産ばかりだったという。生まれてしまった後のお産は余程後始末に手間がかかる。そこで2床だが入院施設をもつことにした。隣接地域に地盤を譲りたいという助産婦がいて、稲城と調布に近接する現住所に1954(昭和29)年転居し2床の助産院を自宅一部につくった。扱う分娩件数は多くなる一方で、手狭となり1962(昭和37)年イトコと再び組んで共同経営するにいたる。1986(昭和61)年地盤と看板を開業意思のある助産婦に譲りわたし、現役の仕事を退いて今日に至る 7)
 以下は1963(昭和38)年の日誌から一部を抜粋する 8)
■s児時々チアノーゼを起こす。I先生の御来診をお願いしたところ断られる。明朝、M先生の御来診をお願いすること。…今年は或いはT先生のご協力が去年ほど得られないことを覚悟せねばならないかも知れない苦難の2年目かもしれない。[1963年1月7日](注:I先生は近隣の内科・外科医院、M先生も近隣の内科医院、T先生は嘱託医だが、自宅まで電車で9駅離れている。)

■mさん、夜眠れないと訴える。何か心配事を持っているのでしょうといえば、涙ぐむ。この人、末っ子の嫁さんで1月から急にご主人のお母さんと同居して苦労をしているそうだ。どちらが悪いとはいえない愛情の問題だ。御主人がうまく立ち回って少しずつ双方のかたくなを解いていくより仕方あるまい。愛情の問題は道理や理を越えたもの。やがて自分も年寄りの立場になることを忘れてはいけない。[1963年2月8日]

■mさん、yさん、tさん、kさん、それぞれ妊娠に悩みかけ込んでくる。一番正しい解決は生むことだ。妊娠やお産を至極ノーマルに考えていた昔が懐かしいし、中絶が平気で行われることがのろわしい。街の彼の事、此の事に踊らされているような自分たち。今夜はこれでもう誰も来ないだろう。正に12時。[1963年2月5日]

■wさんの御主人、相談に来る(Ausの件)。極力お産にする様すすめる。迷って帰る。どちらに決心つけるか火曜日に来なければ生むことにするだろう。[1963年2月14日](注:Ausとは人工妊娠中絶)
 Tは1913(大正2)年に生まれ高等女学校を卒業後、およそ10年ほどして産婆資格をとっている。当時、近代医療による病院分娩をするのは都市の新中間層や上流層の家庭の女性たちだった。そうした濃厚な看護による助産を1つのモデルとして研修を受けた後に、神奈川県で開業したが、いざ産家に出張するとそこでは笹川や柴原たちの活躍した頃の出産とあまり変わりのない出産が行われいた。結果としての自力型出産で、Tは夫や姑が介助するお産の後始末だけをすることがしばしばだった。その都度、産床に清潔なものを敷いて出産の準備をすることを指導したという。
 交通の不便さを解決し衛生的で安全な出産をめざし、Tははじめ単独の、次に共同経営による入院施設をもつ助産院をはじめた。日誌からは当時の助産婦が、出産援助はもとより、地域に深く根ざし産婦とその家族の事情にもよく通じており、深夜にしばしば望まれない妊娠の相談を受けたり、人間関係の相談にも応じていたことが描写されている。
 地元開業医との関係で言えば、戦前は正常産は産婆(助産婦)が、難産は医師にという棲み分けが明確にあったものが、戦後は正常産への医師の進出が一挙に進み、そのために反目や対立もあり必ずしも協力関係ばかりではなかった。このため、助産婦の側は嘱託医を含むいくつかの医院との協力関係を維持していたのである。

5.結びにかえて: 21世紀の助産婦に引き継がれるべきもの

 助産婦の戦後は、大林道子によれば、GHQの占領政策によって助産婦職の伝統のないアメリカ合衆国の医療制度をモデルとした制度改革が行われたことに強く規定されている 9) 。しかし、近代助産の歴史を振り返ると、医制そして産婆規則の時代から、医師の指示なくして医療行為をしてはならないとする助産婦職への制限が、医師と産婆/助産婦の関係を規定してきた点で一貫していることがわかる。それが相互の信頼や協力を生み、また反目や葛藤を生んできた。
 戦後、経済復興とその後の経済成長の中で、より高い教育を受けること、より近代的設備を装備すること、より「安全」なもの、そうしたものに対する選好を生み出し、女性たち自身が出産時の医師の立ち会いを望み、受け入れていった。
 緒方正清ら産科医が行った産婆(助産婦)教育の歴史が示す、学理と実地のバランスの問題は、現代にこそもっと問われるべき課題といえるだろう。戦後、高等教育が大衆化する中で、助産教育はこれを実現してきただろうか。産む女性や家族が必要としていることに耳を傾け、置かれている状況に配慮すること、また身体のもつ力への信頼を引き出し、励まし、産む女性の苦痛を和らげることを学ぶことは、摂取すべき新しい知識ではなく、普遍的な助産教育の基本ではないだろうか。産婆/助産婦が地域で必要とされ、信頼を寄せられていた根拠が、「産む女性にとって何が必要か」をまず助産の基本に据えることの重要性を3人のライフヒストリーは教えてくれる。ここに示された20世紀を生きた産婆/助産婦たちの仕事を通して、このことの重要性をもう一度助産婦職の根幹に据えたい。



1) 『若狭の産小屋』、文化庁編『日本民俗地図V(出産・育児)』国土地理協会、1977。
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2) 湯本敦子『長野県における近代産婆の確立過程の研究』平成11年度信州大学大学院人文科学研究科地域文化専攻修士論文、2000年。
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3) 厚生省医務局『医制百年史』ぎょうせい、1976年、90〜94頁。
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4) 緒方助産婦学会『助産之栞』第1号、1896年、1〜10頁。
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5) 蒲原 宏『新潟県助産婦看護婦保健婦史』新潟県助産婦看護婦保健婦協会、1967。
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6) 藤目ゆき『性の歴史学−公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ』不二出版、1998年。
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7) 大出春江「産む文化−ある開業助産婦のライフ・ヒストリー(その1)」『上智大学 社会学論集』10、1986年、65-87頁。大出春江「産む文化−ある開業助産婦のライフ・ヒストリー(その2)」『東京文化短期大学紀要』No.8、1989年、93-102頁。
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8) 大出春江「産む文化3−助産院の日誌分析」「産む文化4-1963年、1968年、1971年の助産院日誌」『東京文化短期大学紀要』No.9、1991年、55-84頁。
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9) 大林道子『助産婦の戦後』勁草書房、1989年。
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