産む文化 9:東京文化短期大学紀要 17号(2000)

現代女性の出産観:仰臥する姿勢へのまなざしと分娩台の女性たち

大出春江
Harue OHDE
Culture of Childbirth 9 - Hospital and Women's Moulded Bodies on Bed for Labor


  1. 本論の目的と構成

  2. 健康な身体と安全な出産への志向とその誕生

  3. 戦後日本における出産の医療化

  4. 分析の対象とするコメントの性格

  5. 2つの視点:フォーマットとしての分娩台とセクシュアル・ハラスメント文脈

  6. 分娩台というフォーマットへの不適応・適応・再構築

  7. セクシュアル・ハラスメント文脈への移行を阻止する戦略

  8. まとめ

▼資料


1.本論の目的と構成

 これまで、「現代女性の出産観」という主題の下に、「産む文化6」において会陰切開について、「産む文化7」において陣痛促進剤の使用について、「産む文化8」において病院組織とそこで出産をめぐって展開される相互作用と産む側の意識をそれぞれのテーマとして「ぐるーぷ・きりん」による「コメント集」のデータをもとに分析を行った1)
 本稿は、この一連の研究の一区切りとして、「コメント集」の中の内診台と分娩台の項について分析を行う。内診台とは文字通り内診に使われる台をいう。内診とは「医師や助産婦が、子宮口の固さや開き方など、医療情報を得るために膣に指を2本さし込んで診察する方法」2)をいい、妊娠初期と妊娠後期に行われることが多い。一般に病院の内診台は人が一人仰臥して診察を受ける程度の幅しかなく、高さは診察者の腰の高さより多少低い程度である。台自体は、寝台と異なりマットのような弾力性はまったくない。つまり診察にとって機能的な構造になっているということだ。
 一方、分娩台は出産時に使用される台だが、従来のもっとも一般的な型といえば、内診に用いられる台より多少幅を広くした程度の寝台である。子どもを娩出する際に女性が力をこめるためにつかまる棒が頭部と両側にあり、開脚した足を固定する装具がある。ただし、近年は背中がリクライニングする座位対応のイス型を利用する病院もある。
 さて、これらの診察や出産に使われる台について寄せられたコメントは、これまでの会陰切開や陣痛促進剤の使用に関するコメントとはちがう性格をもっており、結果的には病院出産そのものに言及する形のコメントが少なくない。どういう点で特徴的な性格をもつかは、後で詳述するが、このコメントとしての性格から考えても、現代女性の出産観をとらえるために行う「コメント集」分析の最後に、内診台と分娩台に関してコメントを考察することは全体を振り返るという点でも重要な意味があると考える。

2.健康な身体と安全な出産への志向とその誕生

 B.ドゥーデンは18世紀のドイツ女性たちの身体観、病気観をアイゼナッハの医師のカルテから読み込む中で、健康な身体への願望が近代化の産物であって、18世紀ドイツ女性たちの身体観は現代に生きるわれわれのそれとはまったく異なる、常識の通用しない世界観だと述べている。18世紀末頃ようやく、医学的検査の結果および対象として、それは悪用されたり、変形されたり、支配されうる、そうした一つの対象として成立した近代的身体を以下のように説明する。
 「新しい身体は、医者が自分のために発明したものではなかった。新しい身体は、ある階級の欲求の自己表現として成立し、『やわらかな権力』を下の階級に及ぼした。この『健康』という概念は政治的起爆力を備えていた。というのは、個人的幸福の目的としての健康は、その概念が出てきた『国民の身体』の管理と客観化という文脈を隠していたからである。・・・・・・・健康な体を持ちたいという願望を、科学で固められた規範と病理学の枠組みの中に流し込み、そうしてまったく新しい人間像をつくりだしたのが、政治的医学業績である。この願望を人間の本性に帰属させ、そこに固定することによって、『幸福の追求』の権利は−この権利はアメリカ合衆国憲法に起草されているが−健康への権利として具体化した。」3)
 この表現を出産という文脈に置き換えると、次のようになる。「安全な出産をしたいという願望を、科学で固められた規範と病理学の枠組みの中に流し込み、そうしてまったく新しい出産観をつくりだしたのが、政治的医学業績である」と。この理解は現実の出産のありようと人々の出産観にも当てはまるだろうか。このことを考える上で、戦後の日本の出産の変化を簡単に振り返ってみたい。

3.戦後日本における出産の医療化

 日本における出産が病院や医院で行われることが日常化するのは1960年代からであるが、その歩みとともに、本質的に生理現象であるはずの出産にさまざまな医療の介入が行われるようになった。もちろん、いつの時代にも困難な出産はあり、産科医の技術や知識が要請された。しかし1960年代以降の医療による出産の管理は、正常な進行の出産に対しても、会陰切開や剃毛、浣腸を施し、分娩監視装置を腹部に装着し、そして陣痛促進剤を使用する、といったことの一部もしくは全部をルーティン化して行う形で進められた。
 ほとんどは助産婦(産婆)が出張して行われていた自宅での分娩が、医師の立ち会いにとって代わられたのは、ひとえに産む側が安全な出産を望んだからであり、近代的医療の担い手である医師がその希望を実現してくれると期待されたからである。
 このようにして、かつて都市の、それも一部の社会階層の出産のスタイルだった病院分娩が、戦後20年余りの短期間に大衆化し、病院(個人医院)で医師が立ち会う出産は日常のものとなった。
 こうした出産の医療化に対して、陣痛促進剤のために子どもや母親の命が奪われたり、重度の障害を負わされてしまった被害者によって、裁判闘争という形での異議申し立てが行われるようになったのは1980年代である4)。また過剰な医療介入を排したオルターナティブな出産を望む声は、少しづつではあるが、正常な出産の進行に対する人為的な介入のために、苦痛や出産後の継続する痛みを経験させられた女性たち、さらにはより自然で人間的な出産の形(この「自然」とか「人間的」といった言葉は極めて多義的であるが)があることを知った女性たちから上がるようになった。しかし、こうした女性たちは、出産を経験した女性全体から見るとほんの一部でしかなかった。それは、出産という現象が、生殖期間にある女性の身体に起こるという、三重に限られた個人の経験であるために、女性が性について語ることをためらってきたのと同様に、公に語られることがなかった。
 1980年に発覚した、富士見産婦人科病院の正常な子宮摘出などの乱診事件は、女性が自分の体を知らなければならない、という社会的認識を生むきっかけとなり、また1970年代以降のフェミニズムの興隆もまた女性が社会や家族における自分の位置に自覚的になることだけでなく、身体のセルフ・コントロールに対し自覚的になる直接あるいは間接のきっかけを与えた5)
 そうした流れを受けて、出産を自分の生き方の一つととらえ、また夫婦や家族としての関係の絆を再確認する場として、出産を主体的に受けとめる動きも登場してきた。このような出産に対する関心の社会的広がりと、地域関係の希薄化や家族の小規模化にともなう出産情報の偏在化に対応して、出産関係の雑誌や書籍が相次いで出版され、また出産を契機に自主的なサークルも地域単位で生まれるようになったのは1980年代からである。
 こうして、出産を語ることは、かつてほどタブーではなくなってきた。しかし、これから出産する女性たちにとって、出産とはどういうものか、ということを具体的に知る場は依然として少ない。ひとたび、妊娠し出産が具体的目標となったとき、それが初めての出産の場合、同世代の友人に電話で相談するのがせいぜいということになる。
 断片的な情報が自分にとって意味のある、つながりをもった情報に変換されるのは、ほとんどの場合、実際に出産を経験する場においてである。したがって、これまでのコメントにも頻出してきたのは「こんなものなんだと思うしかない」とか「他に知らないから」「子どもが安全に産まれるために必要なことだから」といった現状を受け入れる言葉であった。
 このように見てくると、前節でドゥーデンの医療の近代化論に即して述べた出産および身体観は、日本の戦後に関してもその説明は妥当するといえるだろう。こうした理解を基本において、次節ではコメントの分析に入ることにする。

4.分析の対象とするコメントの性格

分析に入る前に、ここで対象とするコメントの数について触れておきたい。ぐるーぷ・きりんが1993年に回収したアンケート数は493件、このうち個々の項目に関するコメントはそれぞれ分量がまったく異なるが、内診台については57件、分娩台については162件寄せられている。
 これまで分析の対象としてきた会陰切開(221件)や陣痛促進剤(160件)に関するコメントと比較すると、病院の内診台や分娩台に対するコメントは、その性格に関し2点、特徴をあげることができる。
 第一に、会陰切開にしろ陣痛促進剤の使用にしろ、コメントはそれらがなぜ自分の出産に必要か、その条件に言及するものが2/3以上を占める。ぐるーぷ・きりんのアンケート結果にも会陰切開を8割の女性が望んでいないにもかかわらず、自分の出産にとっては必要だったと受けとめている女性が7割を占め、陣痛促進剤の使用は8割近くの女性が必要だったと回答している6)。切開・縫合や薬剤使用は専門家の直接の医療行為であるが、これらに関し、出産の安全性の確保を最優先することを自明の前提として、程度差はありつつもその正当性が内面化されている。したがって、その医療行為のために自分の身体に痛みや不快感が引き起こされたことは認めても、医療行為そのものの直接的な批判や否定にはむすびつきにくい。
 これに対し、分娩台や内診台の評価は非常にストレートに出されている。分娩台に長時間いた結果感じた、疲れ、寒さ、あるいは背中や腰の痛み、仰臥位であることからくるいきみにくさといったことが、そのままコメントに書いている。医療行為への批判や否定は、現代社会にあって健康と生命の安全を保障する専門家として、もっとも正統性を付与されている医師を批判し否定することにつながる可能性があるのに対し、内診台や分娩台という物理的環境に対しては、利用者側の視点で使いやすさ、アメニティといった観点で評価を下しやすいためと考えられる。
 第二の特徴は、内診台や分娩台から見えること、言いかえると医療サービスを与えられる側から捉えた医療スタッフとの位置関係を直感的に描写したコメントが少なくないということである。この点は「産む文化8」で分析対象とした「妊産婦のこころ」のコメントの性格と重複している。その理由は、やはり直接医療行為に関係しないという第一で述べたことに由来しており、そのために出産全体を振り返ったコメントであったり、出産時の相互作用にかかわる感想であるためである。参考までに「産む文化 8」の分析結果を再掲すると、次のような構成でまとめられている。

  1. 出産の場への参加者と妊産婦のかかわり
  2. 産む女性にとっての出産イメージと出産経験の意味づけ
  3. 〈学校としての病院〉
  4. 収集された身体情報のゆくえ
 今回の分析においても、基本的には前回同様の質的分析手法を用いているが、前回と異なり意識的にグラウンデッド・セオリー法のコーディング・パラダイムの視点を活用した。つまり、対象とする現象がなぜ起こるのか。それを引き起こす条件は何か、どのような文脈において起こるのか(現象を構成する特性の次元について言えば、どんな特定の条件が出揃った際にそれが起きるのか)、その出来事に対処するために用いられる行為/相互作用上の戦略、その行為/相互作用がもたらす結果、という観点から現象を分析してみた。こうした点に着目することの一番の目的は、現象の本質を特定すること、しかも現象の形を単に命名したり分類するといった静態的な把握をするのではなく、変動していく諸現象をなるべくその動態においてとらえるために、変動にかかわる条件、相互作用、そこでの戦略、引き起こされる結果をとらえようとするものである。グラウンデッド・セオリー法とは、これらの組み合わせの中で、現象を系統的に説明していくという方法である7)
 本稿で、このコーディング・パラダイムを意識的に分析に活用したのは、病院出産という文脈の中で、なぜそこで行われていることを受け入れているのか、なぜ受け入れていないのか、受け入れるとすると、どのようにしてそれを受け入れているのか、どんな条件が働くと肯定的に評価し、受け入れるのか。あるいは、否定的評価を与えるのか。それらを考察することで、一見バラバラな、個々の意見として表明されているコメントを通して、現代の病院出産とその中の女性たちのとらえ方を系統的に理解することが可能になると考えたからである。
 以下、内診台と分娩台に関するコメント、それぞれ57件と162件を分析した結果を提示していく。なお、この2種類のコメントに関し、本稿では分娩台を中心に議論を進めていき、内診台に関するコメントはそのための補足としている。その第一の理由は、本論のテーマは現代女性の出産観であるが、内診台は妊娠・出産時の内診のみならず他の婦人科領域の疾患の内診等にも使われること。第二の理由は、出産と内診とでは緊急性という点でコメントの性格が著しく異なるためである。したがって本論では、出産時そのものを中心におくため、主として分娩台のコメントを中心に考察を進める。

5.2つの視点:フォーマットとしての分娩台とセクシュアル・ハラスメント文脈

 内診台と分娩台に関するコメントを読むと、表現は様々でもその内容は次の4つにほぼ大別することができる。

  1. 無我夢中で過ごした時間だから、出産という非常時に分娩台について評価をする余裕がない。
  2. 出産時の身体にとって、分娩台がいかに狭く、堅く、昇るには高く、苦痛であるか。
  3. 安全な出産のためには医療者が仕事をしやすいのが一番重要である(だから、受け入れるべきものだ)。
  4. けっして妊産婦の産みやすさを考慮に入れていない。もっと改善の必要がある。

写真:1 東京都内公立病院の分娩室。中央にみえるのが傾斜のついた分娩台である。
1997年3月 筆者撮影




写真:2 1つの分娩室に分娩台が2台並んでいる。奥の分娩台の両側に両足を固定する装置が見える。
同病院分娩室
1997年3月 筆者撮影




 実際、分娩台に関する評価は「すごく怖い感じ」から「なんとも思わない」まで実に様々である。さらに分娩台といっても、まったく同じものについて、評価をしているのではなく、中には座位分娩が可能な椅子型もある。ただし、「コメント集」に登場するほとんどの分娩台は、その内容から、従来型の水平に仰臥し、開脚して足首を固定するという形であると推測される。もっとも厳密に言えば、出産を経験した分娩台とそれに対する評価とを1対1に対応させて考察しなければならないが、座位可能な椅子型で分娩した場合は、コメントにそのことが含まれており、ここでの推測はある程度相互に対応しているとみてよいだろう。
 本稿が目的としているのは、しかし1.〜4.までの分類とその分布状況の把握にとどまらない。3.のような考えで分娩台や内診台を当然のものとして受け入れる女性がいる一方で、なぜまったく役に立たないと思う女性がいるのか。産みにくいとしながらも、それぞれの出産時にどんな工夫をして、それを乗り越えているのか。産む側の具体的な適応の様相を把握することをめざす。もちろん、ここでいう適応には肯定的かつ積極的適応も、評価しないという意味での否定的適応、そして、否定と肯定どちらの評価なのか明確ではないが、結果的には受け入れているという意味での消極的適応も含まれる。
 また、コメントを一つ一つ読み込む作業をする一方で、全体を通して見えてくることがある。それは分娩台(内診台)というのは病院が用意する一つのフォーマットである、ということだ。つまり、身長や体重、出産時の陣痛の強度、開脚が可能な程度など、そうした点での個人差をすべて排除して、病院側の単一フォーマットに、産む女性側がそれぞれ自分の身体を合わせることが期待されているということである。
 フォーマットが単一で他に選択肢がなければ、苦痛や不快感を乗り越えるために戦略を働かせなくてはならない。コメントにはそうした戦略がいくつも紹介されている。それは産む女性一人が用いる戦略もあれば、そこに参加する医療者を巻き込んだ戦略もある。その戦略によって、単一フォーマットである分娩台に乗ることを受け入れながら、より苦痛を軽減できる出産を実現しようと試みる。
 他方、病院の用意する単一のフォーマットを、より積極的に自分が働きかける形で再構築する戦略をとる場合もある。これは一人でも理論的には可能だろうが、現実的には出産の場に参加する医療者を巻き込まなければ実現しない。
 この点と重なりつつ、別のテーマがもう一つ浮上してくる。それはこの強要された姿勢を産む女性がどのようにとらえているだろうか、という問いである。またその強要された姿勢をめぐって登場する医療者たちの行為がどのような効果をもたらすだろうか。この点に着目しながらコメントを読むと、セクシュアル・ハラスメントの文脈に極めて近いことにすぐに気づく。
 病院とは医師をはじめとする多くの医療専門家が分業して、病気をもった患者の治療と健康回復を目的とする組織であるから、患者であるかぎり、原則的には性別も年齢も社会的地位も関係がない。重要なのは病気の種類やその重篤の程度に応じた病気の地位ということがいえる。いいかえると、通常の生活を送る人間は性差を身につけた性的存在であり、年齢や家族や職場等における社会的地位を背負って生きているわけだが、理念的に言えば、病院に入院した途端に、そうした属性をはぎとって一人の患者となって生活することになる。
 一方、出産は病気ではない生理的現象の一つである。帝王切開率が年々増えているとはいえ、ほとんどの分娩が正常分娩であることも事実である。したがって、本来、病気を治療することを目的としている組織に、健康でありながら一時的に入院し、出産が終われば約1週間ほど後に退院することが期待されている妊産婦は、本質的に病院組織の目的と矛盾する異質な存在といえる。
 健康であるのだから、病院組織に入ったところで、性的存在であることも年齢も社会的地位もすべてひっくるめて産む女性はそこにいるのだ。当然、そこに産む女性と出産の場に参加する医療者との間に社会的文脈の理解のズレが生じても不思議ではない。
 医療者にとっては当然のこととして行うことが、分娩台や内診台に乗っている側からすると、セクハラに非常に近い効果を与えたり、セクハラそのものを印象づけることになる。その理由は、繰り返しになるが、産む女性は出産をするために入院した性的存在を含む社会的存在そのものなのだから。それゆえに、出産の場をこうしたセクハラの文脈に移行させないために、病院や産院では看護婦や助産婦がタオルケットなどで覆うなどさまざまな心遣いをみせる。
 これら二つの視点、つまり単一フォーマットとしての分娩台という視点と、セクシュアル・ハラスメントという文脈に近似する舞台装置としての分娩台という視点から、このコメント分析を行っていくことにしよう。

6.分娩台というフォーマットへの不適応・適応・再構築

 病院側の用意する単一フォーマットに対し、産む女性側は、出産する場合、当然乗るものだ、あるいは嫌でも仕方がない、という認識で臨む。そして分娩台そのものが自分の出産の形にそれなりに合っていれば、分娩台によってもたらされる苦痛は小さいか、意識されない。しかし、医療スタッフの期待に反して、女性が自分の身体をうまく分娩台の規格に合わせられない場合、いろいろな苦痛を味わうことになる。

(1)フォーマットへの不適応
 まずはじめに紹介するのは分娩台が自分の身体にとっていかに「狭く」「固く」「高く」「寒く」仰臥して出産することがどれだけ力を入れにくく、苦痛であるかということが繰り返し述べられているコメント群である。

 以上の引用はごく一部であるが、コメントは分娩台の狭さ、硬さ、高さ、冷たさ、さらには手術室然とした分娩室そのものがいかに緊張感を与えるか、を繰り返し語る。フォーマットとしての分娩台というとき、その幅、高さ、材質の硬さ・感触、角度、温度、色といった物理的要素が苦痛や不快感、緊張感、そして産みにくさ(いきみにくさ)、次節で触れる恥ずかしさを招く。しかし、こうしたマイナスの結果を産む女性にもたらすのは、以上のような物理的要素だけではない。
・分娩室は暗く静かで異様な雰囲気でした。ここで子どもを産むのかと思った時、なにかむなしいものを感じました。分娩台に上った時、固く冷たく、そして大病院だったので、次から次へと待っている人が多く、人間として扱われるよりモノとして扱われたような気がします。(その日だけで10人生まれたそうです。)

 病院の受け入れ能力と出産を待機する産婦の出産スケジュールとを調整し、病院では必要に応じて出産時間を計画的に調整する。病院時間というフォーマットに合わせる形で個々の産婦の出産時間が決められていく。

 母子の生命を確保し安全に出産を終えるという目的志向で動く医療スタッフは、産む側からは次のように描写される。

 次のコメントは病院と助産院での内診の比較から、そのズレをより具体的に説明する。

 病院組織の目的と、産む側の目的は共有されているはずだ。しかし、このコメントに見られる視線のすれちがいに象徴されるように、産む女性はスタッフに囲まれているにもかかわらず、強い社会的孤立を感じている。すべての分娩台の女性がそうだとは限らない、という反論もあるだろう。しかし、これらのコメントから示されることは、出産という現象が産む女性の身体に起こる出来事であるという本質的性格のために、病院組織とそこで働く医療スタッフのまなざし、相互作用のあり方は、産む側に疎外感や孤独感を強く印象づける可能性があるということである。

(2)フォーマットへの適応
 フォーマットが単一で他に選択肢がなければ、苦痛や不快感を乗り越えるために産む側は積極的にせよ、消極的にせよ、あるいは結果的に戦略を行使することになる。どんな戦略を用いているのかという視点でコメントを読んでみると、類型化の可能な戦略が何度も登場してくる。そして、その戦略は産む女性一人によって行われる場合と、そこに参加する医療者と一緒に行う戦略の両方がある。それらの戦略によって、単一フォーマットである分娩台に乗ることを受け入れ、かつより苦痛を軽減できる出産を実現しようと試みる。
 以下、4つの類型に戦略を分け、どのようにしてそれらの戦略が分娩台のマイナス効果を無化もしくは軽減しているかをみていくことにする。
 (2)−1 分娩台に乗る時間の短さと陣痛の強さの効果
 この場合、戦略といっても積極的に行使する女性は多くない。むしろ、結果的に分娩台に乗っている時間が短かったために、分娩台がどれだけ不快であったか、あるいは苦痛であったかが記憶に残らなかった、という意味でその効果に言及している。時間の短縮化がマイナス効果を和らげることと同様に、陣痛が激しかったために、分娩台を評価するほど、記憶に残っていないというコメントも含まれる。

 逆に、微弱陣痛であったり短時間に出産が進行しなかった場合は分娩台のマイナス効果は強く記憶される。


 (2)−2 自明性の認識効果
 出産とは分娩台に乗ってするものだ。そういう認識を当然のこととしてもっていれば、いよいよ子宮口が全開大になり、長い陣痛を経て出産に臨むという時になって、はじめての分娩台を目前にしても動揺する事態は緩和できる。あるいは、起こった出来事を「こんなものなんだ」と思い込むことによって、苦痛や不快感をいつまでも記憶の中にとどめない工夫をする。以下は、そうしたコメントである。
 「分娩台に乗ったら固定するものという認識はTVドラマなどであった」というコメントもあるように、高く、白い幅の狭い台で出産するというイメージは、わたしたちの日常生活の中で、知らず知らずのうちに、マスメディアなどを通じて獲得されていく。そして「そういうものだ」、「当たり前だ」という認識は、わたしたちの苦痛や不快感をも緩和する効果をもつのだ。

 (2)−3 医療者の必要性認識を内面化することの効果
 自明性の認識効果と同様に、医学的に必要だという言説は、産む女性や家族にとって大きな説得力をもつ。「産む文化6」や「産む文化7」の中で、会陰切開や陣痛促進剤使用に関する産む側の捉え方の特徴として、<会陰切開合理化認識><陣痛促進剤使用合理化認識>がその受容と納得に貢献していることを指摘したが、同様なことが分娩台についても言える。つまり、診察する側にとって機能的であることが、最終的には出産する側にとっても(少々苦しくとも痛くとも)もっとも望ましいのだ、という認識である。
 こうして健康な身体、安全な出産をめざすことに最大の価値をおくことは、現代社会では医師をはじめとする看護者や助産者はもとより、産む女性もまた期待されている。あえて医療専門家の判断とは異なった、自分の好みや快・不快の軸で判断を下すことは、社会的制裁の対象となる。この意味ではじめに引用したドゥーデンの説明図式を、上記のコメントはわかりやすく例示している。

 (2)−4 医療スタッフに支えられる効果
 前述の1〜3までの戦略は、いずれも産む側が一人でできる戦略である。しかし、先にも触れたように、出産とはその本質的性格が極めて孤独な作業にある。それだからこそ、不可逆的に出産が進行し、陣痛と闘っている時に、医療スタッフが様子を見たり、声を的確にかけたり、あるいは必要なタオルケット等をかけて寒さや視線を防いだり、足の固定や分娩監視装置の装着を最小限にとどめるといった配慮や工夫をすることが、産む側にはアメニティを高める以上の、大変大きな効果をもつ。
 つまり放置されていないこと、出産の軌跡にたえず配慮されていると認識することが社会的孤立感を弱め、したがって、安全だという安心感を生む。その安心感が信頼感を生み、緊張感を緩和させる。
 このように病院組織における医療スタッフとの相互作用が出産のための大前提である信頼関係の形成にもっとも重要であることはいうまでもなく、逆にそうした、関係が形成できない場合(少なくとも産む側がそうした認識をもった場合)、フォーマットへの不適応の箇所で見たコメントに例示されるように、出産はけっして、一般的に考えられるほど、祝福される経験としては記憶されないことになる。

(3)フォーマットを脱構築する
 病院の用意する単一のフォーマットを、より積極的に自分が働きかける形で再構築する戦略をとる場合もある。これは一人でも理論的には可能だろうが、現実的には出産の場に参加する医療者を巻き込まなければ実現しない。
 これはコメント集の中では稀なケースだが、分娩台フォーマットを自分流にアレンジしてしまうという興味深い事例である。この分娩台のアレンジを、個人病院の医者は認め、レバーの代わりに両手を喜んで差し出している。分娩台はもはや乗るものではなく、座るものに変化している。それらの変更を可能にする関係の成立が出産を非常に楽にし、納得できるものにしている。
 しかし、自分の身体情報を読みとって、アレンジの必要を産む女性が認めても、場に参加する医療者がそれを認めなければ、アレンジは不成功に終わる。

 はじめから、分娩台自体が産む側からみた産みやすさ、緊張感の削減を念頭においた形に設計されていると、産む側自身の身体情報の読みとりやそれに基づくアレンジによらなくとも、納得できる出産への条件につながるのかもしれない。
 以上、分娩台を病院の用意する単一フォーマットとみる視点に立ち、産む側がそれに対し苦痛や不快感を感じつつもなぜ受け入れるのか、単独でもしくは複数で適応していく際にはどのような戦略を用いているか、それによってどんな効果を得ているのかということを、コメントから分析的に読みとってきた。
 なお、ここでは触れなかったが、産む女性が分娩台に上ることに対し、いよいよ陣痛から解放される別のステージに移行するという、儀礼的意義を認めている場合、つまり「じたばたしない」覚悟を決める場として捉えている場合や、ともかく安全な出産が完了したことを率直に感謝し、分娩台もまた、そのために貢献してくれたと認識している場合もまた適応条件となるといえる。

7.セクシュアル・ハラスメント文脈への移行を阻止する戦略

 分娩台や内診台に関するコメント全体から浮かび上がってくるもう一つの大きなテーマは、分娩台や内診台において起こる現象は、セクシュアル・ハラスメント文脈に近似しているということである。
 衣類をとり、台に仰臥し、開脚して診察を受けるという行為そのものが、すでにそれだけで強く羞恥心を刺激される。肌を露出するといっても海で水着になることを楽しみにする人と死ぬほど水着になることを嫌いな人がいるように、当然羞恥心には個人差がある。しかし、分娩台や内診台が海辺で水着になって寝そべるのと違うのは、見られる対象が一人で、取り囲む医療者は着衣をして複数であることだ。大学病院など場合によって、その数が分娩台や内診台の女性には恐怖にすらなる。

 病院が仕事場、つまり公的な場である医療スタッフからすると、上記のコメントは過剰な反応であると考えるかもしれない。しかし、それならばどうして出産を経験した女性たちは、TVでみた従軍慰安婦の性病検査のために用いられる木の検査台から分娩台を想起したり、怒りを覚えたりゾッとしたりするのだろう。親しいはずの夫にすら「ああいう姿の自分を見せたくない」となぜ思うのだろう。浣腸のかわりに分娩台の上でさせられた排便を今もなお思い出し、屈辱感を感じるのだろう。
 それは、検診や治療といった目的とは無関係に、わたしたちが性的存在であり続けること、そのためにこれまでもっていた女性としての振る舞い、人間としての振る舞いについてのイメージが著しく脅かされたとき、公的場面において強い羞恥心や、さらには屈辱感を抱くためである。
 内診台や分娩台で強制される姿勢は、本質的に羞恥心や屈辱感そして不快感を引き起こす性格をもつ。なぜなら羞恥心は私的と考えられている領域が暴露されたり、その可能性が予期される場合、感じられるものだからだ。羞恥心が強く引き起こされるのは公的場面である。それは自分の私的領域が暴露される対象となる他者の存在が認められること、暴露を目撃もしくは認識した他者から、自分を隠そうとする際に起こる感情である。公的場面で私的な領域が暴露されたとき、私的な事柄というだけで、それは劣位にあると感じさせられる(もちろん、公的場面もしくは公的領域−私的領域の区別は相対的なものであるが、ここでは病院の分娩室−産む女性の身体という対比を念頭において議論をすすめている)。
 内診が産む女性の身体情報を客観的に入手するための重要な手段だとしても、性的侵襲であることに変わりはない。にもかかわらず、病院で出産の99%が行われるのは「診察や検診、あるいは出産の局面では、こうした公的場面に私的領域が流出することに伴う産む側の感情と、医療者側が暗黙のうちに前提としている、安全な出産のための情報収集の正当性との間で起こる葛藤とが、産む側の当惑を招く形で平衡を保っている」からだ8)
 出産する女性が検診のために内診台に乗ることや分娩台に乗るのが嫌だと言うのは歯医者に行って、口を開けるのが嫌だと言っているのと同じだ、という女性のコメントがあったが、これは機能的には確かに正しい。しかし、台の上の身体は治療や診察の対象であると同時に、産む女性たちの私的領域なのである。そのような個人のプライバシーや明らかにしたくないことは、たとえ病院という公的場面であっても変わらない。いや、逆に公的場面だからこそ、そのバルネラビリティ(vulnerability)が強く認識される。診察や治療のためには個人のプライバシーに関わる領域に必然的に踏み込まざるを得ない。だからこそ、ライバシーの流出を最小限にとどめる工夫が必要なのである。医療者が診療等を通じて知り得た個人の情報は守秘する義務があることはよく知られているが、それらはなにもカルテ上の情報にとどまらず、身体という基本的なものも含んでいるのだ。
 内診や出産する場面はセクシュアル・ハラスメント文脈に近似しているという基本的認識と、そのために、プライバシー保護への最大の配慮をもって医療スタッフが臨む重要性を改めて指摘しておきたい。

8.まとめ

 現代女性の出産観について、1993年の「ぐるーぷ・きりん」のアンケート調査に対し、全国から寄せられたアンケートへの回答とコメントの分析をもとに考察してきたわけだが、493名のアンケート結果と多様なコメントから、出産をめぐって、さまざまな経験とそれに対する多様な対応と認識を知ることができた。
 はじめて「コメント集」を読んだとき、さながら紙上討論のような印象を受けた。それらを類型化しながら、コメントの内容にかかわる条件を考察していくうちにわかったことは、わたしたち自身が現代社会の中で、自明だと思わされている病院分娩のあり方そのものであり、医師と近代医療の正統性が産む女性たちの肌にまでしみ込んでいる事実であった。
 内診台と分娩台に注目することは、直接の医療行為に対する評価ではないために、逆に病院環境を象徴的に表す装置として、病院組織の性格とそこで展開される相互作用を浮き彫りにしている。
 出産時であれ、病気の際の入院時であれ、病院組織の論理や規格に順応することで、よい産婦、よい患者という評価が与えられ、安全でよい出産や健康な身体の回復が可能になると信じている。このために、苦痛や不快感、羞恥心を「こんなものだ」「仕方がない」という形で抑え込み、さまざまな適応戦略を駆使してきたのであり、結果として病院出産そのものの環境やあり方を変える方向でわたしたちが志向してこなかったことも事実である。
 出産する女性の視点から、病院出産を中心とした女性の社会的および心理的な問題の考察を通じて、現代の出産のあり方を規定している構造が病院という組織のあり方にあること、それと同時に産む側が内面化している医療専門家からみた「安全な出産観」が産む側の感覚や判断をもいかに規定しているかを明らかにすることができたと考える。
 近年、自宅で家族が立ち会い出産する動きがわずかながら登場している。それは私的領域が確保される場で、やわらかく低い寝台、必要に応じて姿勢を柔軟に自分の意志で変えることができ、望まない見知らぬ人を排除した環境が保証されているからである。その前提に、出産とは生理的減少である産む女性は時々刻々と進行する出産の軌跡に不安を抱えながら対峙する。病院で出産することは、その進行する出産に対峙しながら、状況によっては病院スタッフである医師や看護婦や助産婦らとも対峙しなければならないことも意味する。そのような出産状況に対する産む側の静かな異議申し立てととらえ、病院組織が産む女性を核にした出産へと変化していくことを期待したい。



1) 「ぐるーぷ・きりん」は「自然なお産を考える」ことを目的に1993年に結成された出産体験をもつ女性たちのグループである。1993年10月『報告集−ここからはじまる』『493人が答える出産に関するアンケートコメント集』を自費出版。これをもとに、『私たちのお産からあなたのお産へ』を1997年メディカ出版から発行。1994年に出産未経験者を対象に行ったアンケート調査をもとに『産む側2200人が語るお産って何だろう』(阿部真理子編著)を1999年発行。
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2) 戸田律子訳『WHOの59ヶ条 お産のケア 実践ガイド』農産漁村文化協会、1997年、p.28)
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3) Barbara Duden “Geschichte unter der Haut”Klett Cotta, 1987, バーバラ・ドゥーデン著井上茂子訳『。女の皮膚の下−十八世紀のある医師とその患者たち』藤原書店、1994年、p.38。
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4)陣痛促進剤による被害を考える会『病院で産むあなたへ−クスリ漬け出産で泣かないために−』さいろ社、1995年。
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5)The Boston Women's Health Book Collective, “The New Our Bodies, Ourselves”Simon & Schuster, 1984,ボストン女の健康の本集団著藤枝澪子監修『からだ・私たち自身』松香堂、1988年。この本の「序文」と「日本語版発刊にあたって」を読むと、フェミニズムと健康にかかわる問題との関連を知ることができる。
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6)大出春江「産む文化 6−現代女性の出産観: 会陰切開への適応」『東京文化短期大学紀要』第12号、1994年、p.71および大出春江「産む文化 7−現代女性の出産観: 陣痛促進剤の使用について」『東京文化短期大学紀要』第13号、1995年、p.80。
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7)Anselm Strauss & Juliet Corbin, “Basics of Qualitative Research-Grounded Theory Procedures and Techniques”Sage Publications, 1990, Chap.7, 南裕子監訳『質的研究の基礎−グラウンデッド・セオリーの技法と手順』医学書院、1999年、第7章。
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8)大出春江「羞恥心からみる出産という場」『助産婦雑誌』第50巻、第7号、1996年7月。
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写真:3 1997年5月19日付朝日新聞朝刊に紹介されたドイツの分娩台。産む女性のいきみやすさを可能にする多様な姿勢がとれる。







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