医学書院『助産婦雑誌』第50巻第7号−特集「助産士」を考えよう−(1996)

羞恥心からみる出産という場

大出春江
Harue OHDE
Embarrassment and Childbirth


  1. コミュニケーションの問題としての羞恥心

  2. 羞恥心とはなにか

  3. 出産と羞恥心を引き起こす状況

  4. まとめ

▼資料


1. コミュニケーションの問題としての羞恥心

 出産を羞恥心の観点からみると、そこで展開されている相互作用はどんな特徴をもっているだろうか。羞恥心という人間の心にかかわることは、心理学の分野で一番扱われていると予想されるが、意外にも感情(情動)の扱いは心理学では動機、学習、記憶、認知などの領域にくらべて少ない。辞典などの記述をみても見方によっては不当な扱いを受けていると思われるほど十分ではない。
 例えば、人間の基本的情動には何が含まれるかということについて研究者の間では必ずしも共通見解がなく、怒りや恐れ、喜び、驚き、悲しみといった情動に関しては比較的研究者間でほぼ共通するものの、関心、軽蔑、苦痛、恥、罪悪を基本的情動とするかどうかは研究者によってばらつきがある1)。羞恥心を照れ、はじらい、はにかみ、恥などの概念まで含む2)ことにすると、刺激に対する反応といったレベルだけではとらえられない広がりをもつことが、こうした事情を説明するように思われる。
 本稿では、出産という場での医療者と産む側とのかかわりと、後半では助産士の登場の可能性を念頭において、羞恥心について考察しようと思う。同様な主旨で羞恥心を中心にすえて出産について議論したものとしては大林道子の研究がある3)。文化論としての羞恥心に関しては広範に大林が紹介しているので、ここでは相互作用の場としての出産における羞恥心に限ることとし、産む側の緊張、不安、当惑といった心の問題をコミュニケーションの問題としてとらえ直し、出産の場から考察していくことにする。

2. 羞恥心とはなにか

 手元の心理学辞典にある羞恥という項に関する記述を以下に引用してみる。
「社会的接触において自己の価値の低さを感ずることに伴う不快の情動で、多くは特定の表出を生ずる。劣等性の意識の点では劣等感と共通するが、劣等感は気分的、羞恥は情動的。(後略)4)」といった具合に、社会的な場面で起こる感情であり、しかもそれは不快という情動の一種だと説明する。
 もう少し別の記述を引用してみよう。
 「自分の行動を抑制したり、身体の一部をかくしたりしようとする傾向に伴う感情。性的行為のとき、食物をとるとき、排泄をするとき、身体をまとわぬときなど、無防備な自分をまもるための反応から出現したと考えられ、社会生活においては公の場面で心のなかの私的な部分を露出する危険を感ずるとき、自分の落度を意識したときのように、自分を守る必要のあるときに出現する。……〈はにかみ〉も〈はじらい〉と同様に逃避的傾向を示すものだが、〈はにかみ〉は人前で平気でいられないという一般的な傾向(→憶病)に関係し、〈はじらい〉は動因(性欲・食欲・排泄欲から野心とか道徳的な人間でありたいという欲求まで)をふくむ。(後略)5)
 はにかみは、対人的内気さをいい、はじらいは人間を生物として存在させる欲求が暴露されたときに感じられるということだろうか。いずれにしても〈私的〉と考えられている領域が暴露されたり、その可能性が予期される場合、羞恥心が感じられる、ということだ。
 羞恥心が起こるのは公的場面であり、自分が暴露される対象となる他者の存在が認められること、暴露を目撃もしくは認識した他者から、自分を隠そうとする際に起こる感情ということになる6)。先の辞典の意味も含めると、そうした自己を劣位にあると認識しており、私的なことがらは公的な場では劣位にあると認められる。会議で眠っていることが露見したり、あらたまった席で空腹のためにお腹の音が響けば人は大変恥ずかしい思いをする。こうした生理的欲求(性的欲求も含む)をもった存在であることも公的な場では劣位にあると認められると考えていいだろう。
 もちろんこうした羞恥心は単に私的領域が公的場面に露出された時、された当人だけが羞恥心を感ずるだけでなく、そうした場に居合わせた他の参加者によっても感じられる場合がある7) 8)
 社会学者のアーヴィング・ゴフマンはこうした微細にも思える人々の対面的な相互作用の場でおこる当惑や羞恥をはじめて社会学的分析の対象とし9)、その後の対面状況での当惑(embarrassment)や恥(shame)についての研究に先鞭をつけた。ここでは彼の議論を手がかりに、産む女性の出産経験に関するコメントを分析的に読む作業を通じて、出産という場での羞恥心について考えてみる。
 ゴフマンは対面状況において当惑が起こるのは「人が、その時にそこにいると感じられる他人の前で示す姿に関係する。決定的な関心は・・目前にいる他人に対して与える印象である。」という。当惑する出来事や状況の中でうろたえたり恥じ入ることを、どう許容するかは文化によっても異なってくる。ゴフマンによればアメリカ社会では「狼狽して見えることは弱さ、劣等生、低い地位、道徳的な罪、敗北、そのほかあまりいただけない属性の証拠と考えられている」。
 当惑する人物をマイナスに受けとめるか、そうでないか、という議論はさておき、ここでは〈自分の呈示しようとした自己〉がなんらかの要因で脅かされたとき、人は当惑する、と彼がとらえたことに注目しておきたい。
 ゴフマンによると「人は社会的出会いをまっとうする義務>すなわち相互作用の場で「落ち着いている」という義務を負っている。そのために「その事態に適切でもある自己を作り上げて・・自分の一連の行動が示す表出的意味を通じ、あるいは単なる参加を通じ、相手に受け入れられるような自己を効果的に提示する。・・それゆえ、社会的出会いの要素は受容可能な自己について効果的に提示したい要求と、他人の側からの同様な要求の確認から構成されている」という。
 また出会いの期間中当惑が継続すると「参加者はそれを、当惑する出来事とはいわずに、不快な、または居心地の悪い状態と呼ぶ。・・連続する居心地の悪さは、通常、より穏やかであり、あからさまに狼狽したような状態を含まない」。
 こうした社会的出会いの場での当惑する状況についてのゴフマンの分析と視点は出産の場での羞恥心を引き起こす状況の分析にどう使えるだろうか。

3. 出産と羞恥心を引き起こす状況

 出産の場は羞恥心を引き起こす引き金になることに満ちあふれている。診察のために上衣をとり、下着をはずす。カーテンというシールドがある場合もあるが、経膣エコーの場合はカーテンなしで内診する医師と対話をする。診察する医師や助産婦、看護婦らは必要に応じて妊婦の身体に接触する。
 「診察では足を開かない人がいますねぇ。でもさすがにお産の時に足を開かない人はいませんよ」10)
 母乳が出やすいように乳房管理もなされる。乳房にしても性器にしても、普段は人目に触れないように隠された場所だ。上野千鶴子がかつて過激に指摘したように、その所有者である女性たちじしんが、それらの存在や感覚を知らないことが大切だとされてきた。そのような身体の存在が妊娠、出産という場では舞台の主人公としてライトを浴びる。だからいつもなら感情を表現し意志を表す女性の顔はそこでは脇役に回される。診察台に乗った女性から言えば、カーテンの向こうが顔であり、カーテンのこちら側が付属的な身体となる。
 出産を経験した女性たちが書いた出産時の状況と感想(「ぐるーぷ・きりん」による1993年実施アンケート調査に寄せられた『コメント集』より)を分析してみると、妊娠・出産を契機に病院を訪れ、検診時や入院時あるいは分娩時に医療者や助産者らとの間に実にさまざまな相互作用を経験し、それについての言及が極めて多い11)
 羞恥心は、気まずさ、困惑、当惑を引き起こす状況の中で感じるものだ。それは単に身体を露出するとか、接触するとかいったことだけですぐに引き起こされるわけではない。個人にとっては私的領域である身体を露出したり接触されることは、文脈の中でさまざまな意味が与えられる。身体の露出で考えると、露出する個人とその場に居合わせる参加者の数、参加者とその個人との関係(親子、恋人、夫婦、友人、医師−患者、踊り子−観客、教師−生徒、公衆浴場の客と主人など)、何を目的とした身体の露出か(入浴、試着、性行為、診療、ダンス、検査、指導など)といった、文脈によって身体の露出や接触は期待されたり、禁止されたり、不快に思われたり、好ましく思われたりする。その意味で身体の露出や接触をめぐるできごとと不快感や羞恥心とは1対1に対応しない。
 では、出産の舞台となる病院という文脈の中ではどうだろうか。医療者や助産者にとっては職場のルーティン・ワークが、出産する側に思いも寄らない反応を引き起こすことがある。
「分娩後、医者が黙々と会陰切開の処理(縫合)していたのがいやだった」
「(定期検診)時折同じ部屋で診察が重なることもあったこと。他の人の診察内容を聞いてしまったり、他の人がいるのに自分がおなかを出さなければならなかった」
「何をされても、嫌なこと(浣腸を忘れられ、分娩室で浣腸しポータブルのトイレでその場で便をした)も出産させて頂けるなら何でもします、という感じでとえも不安な状態で判断力はほとんど無くなってしまい、夫や看護婦の精神的なケアがなければ、出産までたどりつけないと思う」
 プライバシーを構成する3つの要素として、片桐雅隆はゴフマンの議論を踏まえてパーソナルな空間、個人情報、所持物をあげているが12)、身体の露出や接触はこの第一の要素に入る。また診察室で別の人の情報が聞こえてきたり、自分の情報が聞かれてしまうのは、個人情報の流出になる。
 つまり病院という場は医療者にとってあくまで仕事の場であり公的場面である。患者や妊産婦の身体は病院という仕事場にあって働きかけるための重要な対象であり、そこから情報は収集される。他方、患者や妊産婦の側にたつと、そうした公的場面への参加者でありながら、身体と口頭の両方で個人の情報を明らかにしていく。診察や検診、あるいは出産の局面では、こうした公的場面に私的領域が流出することに伴う産む側の感情と、医療者側が暗黙のうちに前提としている、安全な出産のための情報収集の正当性との間で起こる葛藤とが、産む側の当惑を招く形で平衡を保っている様子が読みとれる。
「陣痛が起きて入院したとき、見たことのない医師に内診され大変驚いたしひどいと思った。もう生まれるという時に立ち会いに現れた医師はこれまた違う人でどうなってんだ!と正直思った。産む側の気持ちなど無視なのだと思った」
「元旦、陣痛室で一人で待っているときに産科部長の回診があり、ぞろぞろ研究生もいて、突然子宮に手を入れ、「何センチ開いているけどまだまだだナ」と言われ、モノ的扱いでショックだった」
「初めての時は、ギャラリーができて恥ずかしかった」
次の話しは地方の公立病院に勤務する助産婦から聞き取りしたものだが、彼女自身3回、自分の勤務する病院で出産している。
「分娩の時はかえって居直っちゃうからまだいいんですが、検診の時は先生の顔は見ない。もうカーテンがなかったら恥ずかしくて、終わったらとにかく早く診察台から降りようとそれだけです」

 もちろん公的場面だからこそ、妊産婦を性的存在であると認めないことによって、つまり物理的には私的領域に入り込みながら、態度では無関心を装うことによってバランスをとっているということも考えられる。しかしどんな場にあっても人が性的存在を離れることなどありえない。こうした理由から公的場面を成立させるために、病院はさまざまなシールドを張ったり、助産婦や看護婦による妊産婦への配慮という形で、性的羞恥心を過度に感じないようにするのだ(声をかける、カーテンや布の使用、研修生の数の制限など)。そしてその代表的なものが男性の医師の診察、診療には女性である助産婦か看護婦が必ず立ち会うというルールである。
ここで、出産の場から少し離れるが、身体接触とか身体露出が公的生活の場で起こる他の場面を考えてみよう。
 次の表は文部省が集計した全国の養護教諭の学校別男女別教員数を示している。

表1全国学校別養護教諭数

  女性 男性
幼稚園 390 1
小学校 23,209 0
中学校 10,342 2
高等学校 5,645 3
盲学校
ろう学校
養護学校
76
110
917
0
0
3

平成7年度学校基本調査報告書(文部省調査統計企画課調べ13)

 養護教諭は保健室で生徒の身体測定、保健指導、健康状態の把握、必要に応じた処置を行なう。診察や治療の場合ほどではないが、衣類をとったり身体に接触することは少なくない。こうした場で仕事をしているのは圧倒的に女性である。男性は平成7年度で全国に9名という少なさである。これらの数を単純に解釈すべきではないとしても、思春期という特に性的羞恥心が強い年代14)の男女のいる学校において男性が排除される傾向があるということがわかる。
 養護教諭になるためには4年制大学や短期大学の教職課程を経て取得する場合(一種免許)と、看護婦や助産婦資格を取得している者が指定養成機関を経て取得するか、もしくは保健婦になることによって取得する場合(二種免許)がある。どちらの方法でも、看護婦・看護士、もしくは教職免許をとろうとする学生であれば、男女関係なく養護教諭の資格は取得できる。ところが結果は先の表にみるとおりである。ここからわかることは、資格は性別にかかわりなく取得できるシステムになっていても、身体を露出したり接触する機会のある公的活動の場で、クライアントが男性と女性両方を含む場合、男性はほとんど参加してこない、ということである。
 さらにもう一つ別の資料をみてみたい。表2は看護婦と看護士に関するもので就業者総数が免許取得総数に対しどのくらいの割合を示すかをデータが入手できた1968年から1993年までの変化を示したものである。

表2 看護婦・看護士の免許取得者数に対する就業者数の割合の変化15)

表2 看護婦・看護士の免許取得者数に対する就業者数の割合の変化


 この表からわかるのは、同じ免許をとっても男性の方が就業継続する傾向にあるのに対し、女性は免許をとっても男性ほどは継続しない傾向があり、しかも近年とくに女性の離職傾向が高まっているということである。他の職業と同様、結婚や出産・育児を契機に女性が職場を離れる傾向があると予想される。女性の就業意欲を問題にする以前に、結婚する女性、出産する女性に対し、それを契機に職場から去るべきだとする社会的期待もしくは社会的圧力が依然、わたしたちの社会では支配的だという理由がもっともこの違いを説明していると考えていいのではないだろうか。
 筆者が聞き取りした結婚退職目前の20代の助産婦は次のように語っていた。「理由があって人工流産などの処置をしているとき、わたしはこんなことをやるために助産婦になったんじゃない、と思うことはありましたけど、仕事は一度もやめたいと思ったことはありません。けれども、縁あってお嫁に行くことになったんですが、三交代制のままではちょっと続けられないと思うし、結婚する相手が自営業なものですから無理だと思うんでやめることにしました。でもなんらかの形でかかわっていきたいと思います。」と語っていた。
 女性が仕事をする場合、育児や夫の世話、他の家族員の世話、とりわけ年寄りが介護を必要とする場合、まず一番に女性(妻、嫁、娘といった形で)がその担当となることが期待されているという事情がある。この社会的期待に答えるのが当然であるという傾向が支配的である限り、看護婦も助産婦も事情は変わらないだろう。
 もしこの推測が妥当性をもつとすれば、かりに助産士が導入され、助産婦と助産士が病院に就職した場合、離職率は助産婦の方が高くなるという予測が成り立つ。つまり雇用における男女平等の原則を実施するためには、こうした社会的要因を考慮に入れなければならないということである。
 以上の2つの資料から、身体接触および身体露出が公的場面でおこる保健室や病院の看護の場では女性が結果的に圧倒的多数を占めていることと、しかし就業率だけに着目すると、女性の方が離職傾向が高いことを見てきた。以上のことを参考に最後に筆者なりに助産士の導入に関する考えを述べてみたい。

4. まとめ

 1995年12月と1996年3月、2つの公立病院に勤務する助産婦の聞き取り調査において、助産士導入に関する意見を聞く機会を得た。そこではなぜ助産士を導入しないのか、これだけ助産士を必要としているのだという痛切な要望はなかった。彼女らは助産士の導入によって職場環境が改善されたり、刺激が与えられたり、あるいは分娩介助には手が大きいために有利だったりベッドの移動の際に助かるかもしれない、といった回答はしていたが、助産婦の多くは「けれど産婦さんはなんていうでしょうか?やはり産婦さん次第ではないでしょうか?」と語っていた。
出産とは、対面状況の中で妊産婦が足を開き身体を露出し、順調に排泄することや母乳を出すことが期待されている場である。身体の露出や接触と人を当惑させたり羞恥心が引き起こされる状況とは必ずしも1対1に対応する関係ではないことはすでに述べたが、少なくとも羞恥心を引き起こしやすい状況を内在させていることはこれまでの産む側の言葉で示されたと思う。
 職業に熱意をもってくる人であれば性別は関係ないという考え方もあるだろう。実際、母性保護、助産への強い関心をもった熱意のある男子学生の話しも聞く。しかし問題はそういうところから少しズレている。
 病院や学校という組織は性的存在であることを表面的には無視しながらも、現実には完全に無視することができない状況が起こる。そのために、これまで性的存在が暴露されやすい局面ではそれを隠すための、もしくは公的場面であることを強調するための方策がもうけられてきた。その一つがクライアントが女性で医師や教員が男性の場合、女性が立ち会うか、女性だけが立ち会うという方法である。
 こうした前提にたって、助産士の立ち会いを考えるとすれば、職業における男女差別撤廃という理想のもとにこのルールを無視するか、あるいは助産士の立ち会いには必ず女性が立ち会う、というルールで運営するか、いずれかの方策をとらなければならないだろう。
 こうした形での受け入れができる土壌(病院内の人員配置や予算)を提示しないまま、助産士の導入だけを主張するのは、熱意をもって参入する助産士にとって一番不幸な結果を招くのではないだろうか。またもし導入を本気で考えるのであれば、導入のためのモデル病院を作る前に、まず病院をいくつか観察の協力対象に選定し、そこで産科・婦人科部門の看護士がどのように職場環境として受け入れられるか、また産科・婦人科の入院あるいは外来を訪れる女性患者にとってどのように受け止められるかをまず調査すべきではないか。産科・婦人科で看護士が仕事をしてみて、そこで実際に受け入れられ、それによって職場環境の改善をもたらし出産に対する助産者の意識を変えるという意味で新しい風を送り込むのであれば、その上で導入を検討すべきだろう。また、もしほとんど患者や妊産婦の側に拒否されるか回避されるとしたら、これは導入する側の勇み足と判断されるべきだ。
 男女平等という名前だけにとらわれず、本来産む側にとってよりよい助産環境が提供されることを最優先に判断するのがもっとも望ましいのであり、助産士導入は、このような実質的な検討に基づいてはじめて説得性をもった議論になる。



《注》

1) 丸野俊一・針塚進・宮崎清孝・坂本章著『ベーシック現代心理学1 心理学の世界』有斐閣、1994年。

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2) 高橋由典「羞恥論」『人文』京都大学教養学部、37集、1991年、32〜73ページ。

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3) 大林道子『お産−女と男と:羞恥心の視点から』勁草書房、1994年。

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4) 北村晴朗編『心理学小辞典』協同出版、1978年。

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5) 宮城音弥編『心理学小辞典』岩波書店、1984年。

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6) 成田健一、寺崎正治、新浜邦夫「羞恥感情を引き起こす状況の構造」『人文研究』関西学院大学人文学会、1990年、第45巻、第1号、77〜79ページ。成田健一らは「羞恥感情を引き起こす状況」として、予備調査のために学生171名から2070例の羞恥を経験した状況を収集し39のカテゴリーに分類している。このうち、頻度の最も高いのは「ぶざまな行為」「無能力」「目立つこと」「身体/衣服」に関連する項目である。この結果は成田らが系統的な調査を行うために予備調査としておこなったものだが、興味深い点を示唆している。それはぶざまな行為も無能力もともに自分が呈示したいと考えている自己を裏切ったり、それより低いものを示していること、さらに他の人と違って人目を引くこと、そして身体・衣服に関連しているということである。

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7) 看護学生が臨床実習で出会った恥ずかしい思いをした性的出来事として次のような例がある。 「40代の男性患者の導尿を施行するとき、できればやりたくないと思っていたが、やっとはじめると大部屋の他の患者もみんなシーンとしていて意識しているんだということを感じて恥ずかしかった」 この場合、看護学生自身はもちろん、対象となっている患者以外の同室者たちもことのなりゆきを見守っていて、羞恥心が共有されていたらしいことが示されている。武田敏、川野雅資『看護と性: ヒューマンセクシュアリティの視点から』看護の科学社、1991年。

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8) アプスラーはゴフマンの議論を踏まえて当惑(Embarrassment)について次のように説明している。「当惑とは、個人がある状況の中で提示しようとする面子が、それと矛盾する情報によって脅かされた場合に起こる。その相互作用する人々の集まりの中で、最初は一人だけ面子が脅かされたとしても、そこに居合わせた他の人々もまたそうした脅威を創出する上で一役かったがために、しばしば同じように当惑するものである。」Robert Apsler, "The Effect of an Embarrassing Experience," Journal of Personality and Social Psychology, Vol. 32, No. 1, 1975, p.146.

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9) Erving Goffman, "Embarrassment and Social Organization," American Journal of Sociology, 1956, Vol.62, No. 3, pp.264-271.(アーヴィング・ゴッフマン著広瀬英彦/安江孝司訳『儀礼としての相互行為−対面行動の社会学』法政大学出版局、1986年)。羞恥心を考えるのにshyness, shameといった言葉も関連用語であるが、ここでは内気さとか対人不安ということより、相互作用の中で生まれてくる羞恥心を対象にしていることから当惑する状況に関するゴフマンの議論を引用している。shynessを扱った研究は社会心理学の領域で数多く発表されている。

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10) 1996年3月東京都内公立病院に勤務する助産婦からの聞き取りより。

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11) 「ぐるーぷ・きりん」とは自然なお産を考える会として茨城県の主婦たちにより1993年に結成され、彼女らによって493名の調査票が回収、集計されている。「きりん」によって公開されている調査結果のうちコメント集を質的に分析したものについては大出春江「産む文化:現代女性の出産観 6〜8」『東京文化短期大学紀要』12号、1994年、13号、1995年、14号、1996年、を参照。

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12) 片桐雅隆『プライバシーの社会学−−相互行為・自己・プライバシー』世界思想社、1996年。

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13) この最新の集計結果の数値については(1996)、文部省調査統計企画課からご教示頂きました。

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14) 中村真佑美他「性への援助と性的羞恥心」『看護展望』Vol.8, No.9、1983年、15ページ。

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15) 看護婦・看護士の就業者数については「平成7年看護関係統計資料集」によっており、日本看護協会岩下清子氏にご教示頂きました。また免許取得者数については厚生省医事課鈴木氏にご教示頂きました。記してお礼を申し上げます。

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